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ベンジャミン・ウェストによる新古典主義的歴史画『ウルフ将軍の死』(1771年)には、理想化されたアメリカインディアンの姿が描かれている[1]。
高貴な野蛮人(こうきなやばんじん、noble savage)とは、創作物におけるストックキャラクターで、先住民、アウトサイダー、未開人、(哲学的な意味での)他者、といったものの概念を具現化したものである。彼らは文明に汚染されておらず、従って人間の本来の美徳を象徴する。様々なフィクション作品や哲学書に登場することに加えて、そのステレオタイプな偏見は初期の人類学の研究においても多用されていた[2]。
このフレーズは、英語においては17世紀にジョン・ドライデンが執筆した英雄劇『グラナダの征服(en:The Conquest of Granada)』(1672年)で初めて登場した[3]。「Savage(野蛮)」という単語は当時、「野生の獣」と言う意味だけでなく「未開の人間」と言う意味でもあったが[4]、後に18世紀の感情主義の影響もあって「自然の中の紳士」という理想化されたイメージと同一視されるようになった。1851年、イギリスの小説家チャールズ・ディケンズが風刺的なエッセイのタイトルとして「高貴な野蛮人」の語句を皮肉的に使用したことにより、以後このフレーズは撞着語法(矛盾語法、互いに矛盾する2つの語句をくっつけた語法)を用いた修辞的な表現として広く知られるようになった。ディケンズは、18世紀から19世紀初期にかけての浪漫的原始主義において、「女性的」な感傷性と彼が考えたものから縁を切りたいと思っていたのだろう、と言う説がある[注釈 1]。
「人間は本質的には善である」と言う考えは、イギリスの立憲君主制の確立期においてホイッグ党の支持者であった第3代シャフツベリ伯爵(アントニー・アシュリー=クーパー)が元祖であるとしばしばみなされている[要出典]。シャフツベリ伯爵は彼の著書『美徳についての考察』(1699年)において、人間の道徳感は特定の宗教による教化の結果として生じたものではなく、自然発生的で、先天的で、感情に基づいたものであると仮定していた(道徳感覚学派)。シャフツベリーは、トマス・ホッブズがその著書『リヴァイアサン』の第13章において行った絶対中央集権制の正当化(この中でホッブスは、自然状態とは「万人の万人に対する闘争」であり、その状態における人間の生命は「孤独で、貧乏で、不愉快で、下賤で、短い」と語っているのは有名である)に対して反対した。ホッブズはさらに、そのような状態で生活している現代人の例としてアメリカン・インディアンを挙げた。著作家は古来より、その時代の基準で「文明」とみなしうる範囲の枠外の環境において生活している人々を描写してきたが、「自然状態」という用語を発明したのはホッブスであると考えられている。哲学者のロス・ハリソンは「ホッブズがこの便利な用語を発明したようだ」と書いている[6]。
なお「高貴な野蛮人」と言う用語はジャン・ジャック・ルソーが使った(フランス語のbon sauvage)としばしば信じられているが、これは事実に反する。しかし、後に「高貴な野蛮人」と言う用語で表現されるようになる類型的なキャラクターは、少なくとも16世紀のジャック・カルティエ(ケベックを植民地化した人物。イロコイ族について語ったもの)およびミシェル・ド・モンテーニュ(哲学者。トゥピナンバ族について語ったもの)の時点で既にフランス文学に登場している。
「高貴な野蛮人」の前史1776年に上演されたトーマス・サザーンの演劇『オルノーコ』より、オルノーコがイモインダを殺害するシーン。
近代的な意味での「高貴な野蛮人」と言う概念は、17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパ紀行文学において発生したが、タキトゥスが西暦98年頃に記した『ゲルマニア』はその先駆例だと考えられている[7]。「高貴な野蛮人」と言う概念の原点として他に挙げられるのが、「イスラエルの失われた10支族」伝説と「プレスター・ジョン」伝説で、彼らは太古の昔において西洋人と宗教的な縁戚関係にあり、植民地に所在する先住民の中から彼らを見つけ出すことが、殖民地調査の目的の一つとしてあった[8]。「高貴な野蛮人」として扱われる別の例として、モンゴル帝国の皇帝(大ハーン)が挙げられる[9]。
ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の発見以降、先住民を指して言う「野蛮人」との言葉は、植民地主義を正当化するために軽蔑的に使用された。「野蛮」の概念は、先住民が既に実用的な社会を構築しているという可能性を考慮せずに一方的に植民地を設置するための、かりそめの権利をヨーロッパ人に与えた[10]。
16世紀末から17世紀にかけて、ヨーロッパ人がフランス宗教戦争(ユグノー戦争)と三十年戦争の苦難に包まれる中で、「野蛮人」の姿がヨーロッパ文明に対する非難として立ち上がってくるようになり、この存在は次第に「良き野蛮人」と綴られるようになる。ミシェル・ド・モンテーニュは、彼の有名なエッセイ『Of Cannibals(人食い人種について)』(1580年)において[11]、ブラジルのトゥピナンバ族が名誉の問題によって死んだ敵の遺体を儀礼的に食べていると報告した。しかしまたモンテーニュは(彼自身はカトリック教徒だったが)、ヨーロッパ人が宗教的な見解の相違の問題によって互いに生きたまま火あぶりに処しあうことを仄めかし、ヨーロッパ人の振る舞いはもっと野蛮ですらあることを、読者に思い起こさせた。曰く「人は、見慣れない物は何でも『野蛮』と呼ぶ」。 テレンス・ケイブ(イギリスの文学者)の解説によると、 人食いという習慣は(モンテーニュによって)認められていますが、しかし複雑でバランスのとれた慣習と信念の体系の一部分であるから、その行為自体が「理にかなった」ものとして描写されています。彼らは勇気と誇りに関して強力にポジティブな倫理に従っており、それはヨーロッパ近代初期の名誉の規範に訴えるであろう物であり、そして、拷問や野蛮な処刑方法などと言った、明白に魅力に欠けるものとして表現されるフランス宗教戦争(ユグノー戦争)の行動様式とは対照的であり…(以下略)[12]
『人食い人種について』では、モンテーニュは風刺目的で文化相対主義(ただし道徳的相対主義ではない)を使用していた。原住民の人食いは高貴でも並外れて優れているわけでもなかったが、同時にまた、彼らは同時代の16世紀のヨーロッパ人より道徳的に劣ることが示唆されていたわけでも無かった。古典的人道主義者と評されるモンテーニュは、「一般的に人類は、たとえ風習は異なっても、さまざまな形をとって残虐行為をしがちである」と描写しており、そしてそのような人類の特質をモンテーニュは嫌っていた。デビッド・エル・ケンツ(フランスの研究者)の解説によると、 モンテーニュは著書『随想録』において(中略)フランス宗教戦争における初期の3つの戦争(1562?63、1567?68、1568?70)を非常に具体的に論じました。彼は個人としてこの戦争に参加しており、フランス南西部の国王軍の側に付いていました。サン・バルテルミの虐殺をきっかけに、彼は退役してペリゴール地方の故郷に帰り、1580年代まですべての公務において沈黙を守りました。