高見順
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高見 順
(たかみ じゅん)
土門拳撮影による肖像写真(1953年)
誕生1907年1月30日
日本福井県坂井郡三国町
(現・坂井市三国町)
死没 (1965-08-17) 1965年8月17日(58歳没)
日本千葉県千葉市、現稲毛区
墓地東慶寺
職業小説家詩人
言語日本語
国籍 日本
教育学士文学
最終学歴東京帝国大学英文科
ジャンル小説
文学活動無頼派 (転向文学)
代表作『故旧忘れ得べき』(1936年)
『如何なる星の下に』(1940年)
『樹木派』(1950年、詩集)
『昭和文学盛衰史』(1958年、評論)
『いやな感じ』(1963年)
『死の淵より』(1964年、詩集)
主な受賞歴毎日出版文化賞(1959年)
新潮社文学賞(1963年)
野間文芸賞(1964年)
文化功労者(1965年,没後追贈)
デビュー作『故旧忘れ得べき』(1935年)
子供高見恭子(長女)
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高見 順(たかみ じゅん、本名・高間芳雄、1907年1月30日 - 1965年8月17日)は、日本小説家詩人。出生に関わる暗い過去や、左翼からの転向体験を描き、第1回芥川賞候補となった『故旧忘れ得べき』で一躍注目を浴びた。その後も『如何なる星の下に』『いやな感じ』などで高い評価を受けた。詩人としても著名。日本近代文学館設立にも尽力し、初代理事長に就任。文化功労者(追贈)。
経歴

1907年福井県知事阪本ソ之助[注釈 1]非嫡出子として福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に生まれる。母・高間古代(コヨ)は阪本が視察で三国を訪れた際に夜伽を務めた女性である。

1908年、母と共に上京する。実父と一度も会うことなく、東京市麻布飯倉にあった父の邸宅付近の陋屋に育つ。私生児としてしばしばいじめを受けた。阪本家からは毎月10円の手当てを受けていたが、それでは足りず、母が針仕事で生計を立てた。1924年東京府立第一中学校卒業、第一高等学校文科甲類入学。一高社会思想研究会に入会する。1925年ダダイスムの雑誌『廻転時代』を創刊する。1926年、校友会文芸部委員に就任する。1927年に一高を卒業[1]東京帝国大学文学部英文学科に入学する。同人雑誌『文芸交錯』創刊に参加、また1928年に左翼芸術同盟に参加し、機関紙『左翼芸術』に小説『秋から秋まで』を発表する。東大内の左翼系同人雑誌7誌が合同した『大学左派』創刊にも参加する。劇団制作座の仕事に従事し、劇団員だった石田愛子と知り合った。

1929年、『大学左派』の後身『十月』や『時代文化』の創刊に参加し、プロレタリア文学への道を進んだ。1930年に東大を卒業、研究社英和辞典臨時雇として勤務する。その後、コロムビア・レコード会社教育部に勤務する。雑誌『集団』創刊に参加、この頃、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加したと推定される。石田愛子と結婚する。

1933年治安維持法違反の疑いで大森署に検挙される[注釈 2]が、「転向」を表明し、半年後に釈放された。妻・愛子は他の男性と失踪し、離婚した[注釈 3]。雑誌『日暦』創刊に参加した。

1935年、饒舌体と呼ばれる手法で『故旧忘れ得べき』[注釈 4]を『日暦』2月号-7月号に発表、第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立した。水谷秋子と結婚する。

1936年、『人民文庫』の創刊に『日暦』同人とともに参加する。また、コロムビア・レコード会社を退社、文筆生活に入る。思想犯保護観察法が施行され、擬似転向者として再調査される。1938年、浅草五一郎アパート(曽我廼家五一郎が経営)に部屋を借りて浅草生活を始める。

1939年、『如何なる星の下に』[注釈 5]を『文芸』1月号から1940年3月号にかけて発表、高い評価を受ける。

1941年、陸軍報道班員として徴用されビルマに派遣される。戦場にも出たが、鉄兜も帽子もなくしてしまい、心細さの挙句に鉢巻をしたが、「多少は心強くなった、鉄砲玉には何の効果もないだろうが、いくらかは安心感がある。戦場の心理とはおかしなものだ」と、戦後になって海音寺潮五郎に語っている[2]


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