高見盛精彦
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高見盛 精彦


基礎情報
四股名高見盛 精彦
本名加藤 精彦
愛称カトちゃん、たかみー、角界のロボコップ、振分親方、稽古場序二段(曙談)[1][2]
生年月日 (1976-05-12) 1976年5月12日(48歳)
出身青森県北津軽郡板柳町
身長188cm
体重145kg
BMI41.03
所属部屋東関部屋
得意技右四つ、寄り、後ろもたれ
成績
現在の番付引退
最高位東小結
生涯戦歴563勝564敗46休(83場所)
幕内戦歴408勝446敗16休(58場所)
優勝十両優勝1回
殊勲賞1回
敢闘賞2回
技能賞2回
データ
初土俵1999年3月場所
入幕2000年7月場所
引退2013年1月場所
引退後年寄・振分→東関
趣味音楽鑑賞、カラオケ、アイドル鑑賞、プラモデル、ゲーム、サイクリング
備考
金星2個(武蔵丸1個、朝青龍1個)
2020年2月2日現在■テンプレート  ■プロジェクト 相撲

高見盛 精彦(たかみさかり せいけん、1976年5月12日 - )は、青森県北津軽郡板柳町出身で東関部屋に所属した元大相撲力士アマチュア相撲出身。本名は加藤 精彦(かとう せいけん)、愛称はカトちゃん、たかみー、角界のロボコップ身長188cm、体重145kg、血液型はO型。得意手は右四つ、寄り。最高位は東小結2002年9月場所、2003年11月場所)。現在は年寄東関八角部屋の部屋付き年寄)。

現役時代は角界屈指の人気力士であり、取組に多数の懸賞金がかけられ、多数のテレビCMに出演していた。
来歴
アマチュア時代

相撲板柳町立板柳北小学校の4年生から始めた。当時は給食カラオケが大好きな大人しい少年で、相撲を始めたきっかけは当時いじめられっ子だった加藤少年を見かねた担任が「相撲部に入らなければ給食をおかわりさせないぞ!」と叱責したことによるものだった。以来、大相撲現役時代と同じここ一番の勝負強さで中学横綱国体少年の部優勝、全日本選手権優勝(アマチュア横綱)の実績を重ねた。岩木山弘前実業高校の1年先輩[注釈 1]。中学時代、若の里武州山は青森県で同学年の相撲のライバルだった。

板柳町立板柳中学校青森県立弘前実業高等学校を経て日本大学経済学部へ進学。元関脇追風海板柳町出身の同郷で中学、大学の1年先輩にあたり、田宮啓司(後の琴光喜)とは日本大学時代の同級生である。当初は稽古や人間関係が厳しいだけでなく、食事や水、空気もなかなか合わず、上京時点で130kgあった体重が100kgを切るなど苦労があったという。当時部員が40人以上いた相撲部では同学年の田宮が1年から即レギュラーを獲得した反面、本人は最下層からのスタートだったといい、後年「田宮がうらやましかった」と述懐している。それでも大学2年の夏大会の前に上級生との稽古で3番連続で勝ったことでその上級生からレギュラーの座を譲られ、公式戦の機会を得ることとなった[3]

学業では琴光喜が「中国語の授業で高見盛は分かってないのに何かしら言うんですよ。でも、彼はずっと授業に出続けて単位を取った。僕は行かなくなって単位を落としました」と本人の真面目さを証言している[4]。本人は引退会見で「学生の頃も勉強の成績は全然よくなかったし、会計もろくすっぽ理解できないと思うので、独立して部屋を持ちたいとは思いません。」と話しており[5]、本人の名義としては初となる自伝の出版を記念したサイン会では「文章は苦手」との感想を漏らした[6]
大相撲入門後

大学卒業後の1999年3月場所に、本名と同じ加藤 精彦の四股名幕下付出で初土俵[2]2000年1月十両昇進の際に“高見盛”に改名。命名者は入門時の師匠の12代東関親方(元関脇・高見山)で、「部屋が盛んになるように」との願いを込めたという[注釈 2]。また清酒日本盛にもちなんでいる[注釈 3]

新十両を果たした高見盛は現役晩年の露払い候補として指名され、曙は巡業でも持ち時間の大半を高見盛のぶつかり稽古の相手を務めるために使い、熱心に厳しく鍛えた[7]。これが高見盛の出世を促し、曙自身も最後の活躍を果たす要因のひとつとなった。出世が早く髪の毛の伸びが追いつかず、2000年3月場所に初めて髷を結えた。2000年7月場所に新入幕を果たすが、大銀杏は2000年9月場所になってから結えるようになり、以降は念願であった部屋の横綱・曙の土俵入りで露払いを務めた[2][注釈 4]。曙の引退後は、一門の横綱・朝青龍太刀持ち又は露払いを朝青龍が引退するまで務めていた。しかし、入幕2場所目の9月場所で右膝靱帯を断裂の大怪我をし途中休場、幕内復帰まで1年半経かる事となる。

2002年3月場所で再入幕してからは幕内に定着、5月場所頃から全国に後述のパフォーマンスが浸透し出す。7月場所で2度目の三賞、初の技能賞獲得。9月場所、貴乃花の1年4か月ぶりの復帰戦である初日の相手となる。

2003年3月場所、三役の3人に勝ち3度目の三賞。7月場所、初金星とダブル金星を獲得、2横綱2大関に勝ち初の殊勲賞獲得、4度目の三賞。9月場所、2大関に勝ち5度目の三賞。

2003年には幕内上位?三役(小結)に定着し、大関昇進を強く期待されていた。7月場所の中日の朝青龍戦はゾーンに入って金星を手に入れたため、本人は「勝ったか、勝ったのか?」と土俵上で自分に確認していたといい、「やった!」と叫んでいたと伝わっているのはこれは誤り[8]。2003年9月場所5日目の魁皇戦では、当時高見盛がまず使うことはないであろうとされていた「左差し」を使い、あっさり土俵外へ出す(決まり手は押し出し)。高見盛の鮮やかな勝ちっぷりはいわゆる「幻の左」と語り継がれている。が、当の魁皇は敗戦の直後憮然として土俵を下り、直後のインタビューで「けいこ場では力を出さないのに、こんな時だけ力を出す。あいつは相撲取りとして、許せない」という意味の言葉を声を荒らげながら口にした[2][9]

しかし翌11月場所前の出稽古で、朝青龍から2勝したものの、その報復ともとれる極めて危険なバックドロップのような吊り落としを受け、右差しを得意とする相撲の生命線ともいえる右肩を亜脱臼。医者から「もう治らない。ずっと痛みと付き合っていくしかない」と診断されるほどの重傷を負い、以後低迷[注釈 5]。この影響は大きく、その後も衰えない人気とは裏腹に幕内中位が定位置となってしまい、三役に返り咲くことは二度となかった[2]

土俵上で肩を怒らせ、雄叫びと共に両拳を上下する仕草や島木譲二の「パチパチパンチ」のように顔や胸を叩くユーモラスな「気合入れ」がファンの人気を集め、「気合入れ」に合わせて観客から掛け声がかかるなど場内を沸かせた。初期の「気合入れ」は顔面を思いきり握り拳で叩く傾向にあった[10]が、次第に顔面を叩くことは少なくなり叩く力も穏やかになった。現役終盤は胸を軽く叩く程度に落ち着いた。

2023年10月5日放送分の『ぽかぽか』によると、ケガからの幕内復帰場所である2002年同年3月場所では土俵上で恐怖に体が震えたため、その時に「自分の顔をぶん殴って気合を入れた」ことがきっかけだったとのこと。「痛みで闘争本能を引き出したかった」と本人は説明を続け、それが恒例の体をたたきまくるルーティンにつながったという。最初は拳で顔を殴っていたが「相撲が終わった後、頭がキンキンするようになった。だから体をたたくようになった」とも話した[10]


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