高見沢俊彦
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高見沢 俊彦
出生名見澤 俊彦
別名見澤 俊彦(筆名)
Takamiy
王子
ポール・マッカーサー
生誕 (1954-04-17) 1954年4月17日(70歳)
出身地 日本埼玉県蕨市
学歴明治学院大学文学部中退、
後に同学名誉学士称号授与
ジャンルヘヴィメタル
ハードロック
ロック
職業ギタリスト
シンガーソングライター
担当楽器ボーカル
ギター
ベース
フラットマンドリン
バンジョー
ピアノ
キーボード
シンセサイザー
活動期間1973年 -
レーベルビクター音楽産業
(1974年 - 1975年
F-LABEL
1979年 - 1994年
Zeit
(1994年 - 1997年
EXPRESS
(1997年 - 2003年
EXPRESS・Virgin Music
(2003年 - 2013年
EMI Records Japan
(2013年)
Virgin Music2014年 - )
共同作業者ツェッペリン・ジュニア・スペシャル
Confidence
THE ALFEE
FANTA(2012年まで)
公式サイトTHE ALFEE
著名使用楽器
所持数が512本(2015年6月24日現在)と非常に多いので、本文参照

高見沢 俊彦(たかみざわ としひこ、1954年昭和29年〉4月17日 - )は、日本シンガーソングライターギタリスト音楽プロデューサー小説家。本名及び筆名は見澤 俊彦(読み同じ)。

埼玉県蕨市出身[1]。蕨市立南小学校、蕨市立第一中学校、明治学院高等学校卒業、明治学院大学文学部英文学科中退(2014年3月、同学より「名誉学士」称号を授与)。身長174cm。血液型はA型。ニックネームは主に「takamiy」、「王子」。「takamiy」の愛称は、LOVE LOVE あいしてる内で、篠原ともえが呼んだことに由来する。

THE ALFEE』の2代目リーダー(1982年以降。初代は坂崎幸之助)。

BE∀T BOYS のメンバーとしてはポール・マッカーサーを名乗る。
略歴

蕨市立第一中学校時代はバスケットボール部に所属し、3年時は主将として活躍した。

明治学院高等学校に進学後は、「ツェッペリン・ジュニア・スペシャル」というバンドで、レッド・ツェッペリンディープ・パープルなどに傾倒し、そのハイトーンボーカルを買われてコピーバンドのボーカルを担当していた。同校の同期の一人に桜井賢がいた。当時、高見沢はD組に所属、桜井はF組に所属していたため、ディープ・パープルのD、フォークのFと話題にされることがある。

1973年、桜井や明治学院大学に進学した坂崎幸之助の誘いでアルフィーの前身コンフィデンスに参加、同時期に映画『二十歳の原点』のサントラに参加する。コンフィデンスは演奏で参加することはなかったが、高見沢が「コンフィデンス」名義で「夜」の作詞を担当している(歌は四人囃子)。

1974年、コンフィデンスは「アルフィー」の名で、高見沢自身がリードボーカルを担当する「夏しぐれ」でデビューすることとなり、その際ディレクターより「第二の赤松愛」と評された。しかしながら自分たちがグループとしての音楽性や信念を持たずに周囲に流されるままデビューしたことに端を発した、レコード会社による一方的なレコード発売中止などの挫折(詳しくはTHE ALFEEの項を参照)を経て、高見沢が同じ事務所に所属していた大野真澄に師事するなどして作曲・編曲・作詞方法を学び、その後は大野にアドバイスを受けながらオリジナル曲を作り、ライブハウスで発表するようになる[2]。現在、THE ALFEEのソングライティングにおいてのイニシアチブは彼が主に持っている。まだ売れなかった頃は東京メトロ半蔵門線(現在の名称)の工事現場でアルバイトもしていたという。

1979年キャニオンレコードから、アルフィーの再デビューシングル『ラブレター』を発売。この作品以降、ほとんどの作品の作詞・作曲を高見沢が担当する。

1982年、アルフィーが行ってきたフォーク路線から、高見沢主導のロックバンド路線へ転向。それに伴い、高見沢がリーダーとなる。

1989年作家山川健一の書き下ろしで、「高見沢俊彦」を主人公とする小説『蜂の王様』が発表され、一部のファンの間で物議を醸す。

1991年アルフィーとしての活動を半年間休止し、ロンドンでレコーディングされた初めてのソロ・アルバム『主義-ism:』を発売(「いずむ」と発音されることが多い)。コンサートツアーも実施した(第1期ソロプロジェクトと呼ばれている)。このアルバムは、スティーブ・ヒレッジ、デビッド・モーション、マイク・ヴァーノン、マーティン・ラシェントの4人のプロデューサーを立てて製作された。比較的ポップな曲調ではあるが、ロンドンを意識してか随所にアンビエントな要素がうかがえる。帰国後のインタビューで、アラン・パーソンズからもプロデュース承諾の返事をもらったがレコーディングがすでに進行していて逆に断ってしまったと話している。

1995年9月27日、『the ALFEE MEETS dance』を発表した。デイブ・ロジャースのプロジェクトで、デイブと妻のドミノのボーカル、高見沢はトータルプロデュースとギターでの参加であった。


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