高見のっぽ
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たかみ のっぽ
高見 のっぽ
本名.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}高見(たかみ) 嘉明(よしあき)
別名義高見(たかみ) 映(えい)(旧芸名)
生年月日 (1934-05-10)
1934年5月10日
没年月日 (2022-09-10) 2022年9月10日(88歳没)
出生地 日本京都府京都市右京区太秦安井池田町
出身地 日本京都府京都市右京区
死没地 日本東京都
身長181 cm[1]
職業俳優、作家
著名な家族柳妻麗三郎(父)
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高見 のっぽ(たかみ のっぽ、以前の芸名:高見 映(たかみ えい)、本名:高見 嘉明(たかみ よしあき)[2]1934年昭和9年〉5月10日 - 2022年令和4年〉9月10日)は、日本俳優作家京都府京都市右京区出身。

『なにしてあそぼう』(NHK教育テレビジョン、1966年 - 1970年)『できるかな』(NHK教育テレビジョン、1970年 - 1990年)にて、一切喋らないキャラクター「ノッポさん」を務め上げ、放送終了後も「ノッポさん」の愛称で親しまれた。
生涯
生い立ち

京都府京都市右京区太秦の役者長屋に生まれ、4歳から東京府東京市向島区に育つ[3]。6人兄弟の第4子[3]

父・嘉一(芸名は柳妻麗三郎(やなづま れいざぶろう)、松旭斎天秀(しょうきょくさい てんしゅう)、チャーリー高見など)は芸人、奇術師、俳優、工場長と様々な職業を経験し、太平洋戦争後、芸人に復帰した人物[3]チャーリー・チャップリンの物まねを得意とし、京都のマキノ・プロダクションに俳優・柳妻麗三郎として在籍していた時期に嘉明が生まれた。

小学校4年のとき岐阜県羽島郡笠松町に疎開。笠松町立笠松小学校笠松町立笠松中学校を卒業。岐阜県立加納高等学校に入学し[4]、高校2年までこの地で過ごす。帰京後、東京都立立川高等学校に転校し卒業。芸人であった父の影響で、芸で身を立てることを志す。
ダンサーからNHK番組へ

フレッド・アステアを尊敬し、ダンサーとして芸歴をスタートさせた。キャバレーの営業から始め、まもなく日劇ミュージックホールに出演するまでになったが[3]、その後が続かず、4年間ほぼ失職状態になり[3]、自殺を考えたこともある[5]

25歳のとき心機一転して東宝ミュージカルスの研究生になるが、大部屋俳優に慣れてはいかんとほどなく脱退[3]。たまたまバックダンサーとして呼ばれたNHKの番組『不思議なパック』のプロデューサーに気に入られ、新しく始まる番組『音楽特急列車』の司会を任される[3]。番組は半年で終了したものの、NHKとのつながりは続き、番組の構成や振り付け、作詞などで様々な番組に呼ばれるようになった[3]
「できるかな」のノッポ役に抜擢

32歳のとき、NHK教育テレビ『なにしてあそぼう』(後に『できるかな』)のノッポさん役に抜擢される[3][6][7]。名前の由来は当時としては高身長だったことから[8]。4年続いた番組の後に始まった『できるかな』には当初出演していなかったが、視聴者からの要望で1年後に再び呼ばれ、レギュラーとなる[3]

以後しゃべらない(意思表示はジェスチャーだけの)キャラクターを演じ続け、国民的な知名度を得るに至った。『できるかな』のスタッフには「セロテープのノッポさん」という合言葉があった。不器用でセロテープを使いこなせなかったためである[6][7]

『できるかな』の最終回(1990年3月)にノッポさんが初めて子供たちに語りかけたことは、当時の子供たちに衝撃を与えた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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