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高穴穂宮(たかあなほのみや)は古代近江にあったとされる宮である。『日本書紀』には高穴穂宮と記されるが、『古事記』と『先代旧事本紀』には志賀高穴穂宮と記される[1]。目次 穴穂は滋賀県大津市穴太に比定されている。考古学的な遺構は全く確認されてない。[注釈 1]が、同地にある高穴穂神社[注釈 2]を宮址とする伝承がある[1]。 『日本書紀』によると、景行天皇が景行天皇58年から崩御するまでの3年間、志賀に居して是を高穴穂宮とすると記し、次代の成務天皇が日本書紀には明確な宮の記載は無いが、この宮で即位し、この地において60年間統治したと推定され、仲哀天皇が即位2年目に笥飯宮に遷宮するまで3代の天皇が宮居したとする。一方で『古事記』には成務天皇が近江志賀の高穴穂宮に居して天下を治めると記している[1]。 王朝交替説の一つで、三輪王朝と河内王朝に挟まれた景行、成務、仲哀の3代にわたって近江に本拠とした王朝があったとする学説。水野祐の三王朝交替説は諡号に「イリ」を持つ天皇皇族による三輪王朝と「ワケ」を持つ天皇皇族による河内王朝とするが、近江王朝は「タラシ」が諡号に含まれる3天皇1皇后[注釈 3]を根拠の一つとしている[2]。同時期には四道将軍を始め、尾張、丹波など畿外に関連した叙述が『記紀』に多くみられ、国造をなど王権による全国支配が進められたとされる[2]。 [脚注の使い方]
1 概要
2 近江王朝説
3 脚注
3.1 注釈
3.2 出典
4 参考文献
概要
近江王朝説
脚注
注釈^ 高穴穂宮という都がございます。ただし、この都は実在したのかどうかを含めまして、さらにいえば、景行天皇という天皇が実在したのか?どうかも含めまして色々議論があるところです。また、遺跡というかたちでの確認はまったくされておりません 「近江・大津になぜ都は営まれたのか?」 大津市歴史博物館 P53
^ 同社は明治以前には禅納大明神社とされていた[1]。
^ 景行天皇=オオタラシヒコオシロワケ、成務天皇=ワカタラシヒコ、仲哀天皇=タラシナカツヒコ、神功皇后=オキナガタラシヒメ[2]。
出典^ a b c d 井上満郎 1978, p. 76-80.
^ a b c 井上満郎 1978, p. 80-84.
参考文献
『新修大津市史』第1巻 古代、大津市、大津市、1978年。
井上満郎『高穴穂宮』。
更新日時:2022年1月24日(月)10:56
取得日時:2022/03/02 19:12
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