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日本の政治家高碕 達之助たかさき たつのすけ
科学技術庁長官時
生年月日1885年[1]2月7日
出生地大阪府島上郡三箇牧村
(現・高槻市柱本)
没年月日 (1964-02-24) 1964年2月24日(79歳没)[1]
出身校農商務省水産講習所
前職電源開発総裁
所属政党自由民主党
称号正三位・勲一等旭日大綬章
配偶者高碕いと
第6代 科学技術庁長官
内閣第2次岸内閣
在任期間1959年1月12日 - 1959年6月18日
第16代 通商産業大臣
内閣第2次岸内閣
在任期間1958年6月12日 - 1959年6月18日
初-2代 経済企画庁長官
内閣第2次鳩山一郎内閣
第3次鳩山一郎内閣
在任期間1955年7月20日 - 1956年12月23日
第8-9代 経済審議庁長官
内閣第1次鳩山一郎内閣
第2次鳩山一郎内閣
在任期間1954年12月10日 - 1955年7月20日
衆議院議員
選挙区大阪3区
当選回数4回
在任期間1955年2月28日 - 1964年2月24日
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高碕 達之助(たかさき たつのすけ、1885年[1]2月7日[2] - 1964年2月24日[1])は、日本の政治家・実業家。満洲重工業開発株式会社副総裁・第2代総裁、電源開発初代総裁、通商産業大臣、初代経済企画庁長官などを歴任した。
大阪府島上郡三箇牧村(現在の高槻市)で生まれる[1]。旧制茨木中学を卒業後[1]、農商務省水産講習所(後の東京水産大学、現在の東京海洋大学)に入所[1]。その後、メキシコ万博漁業に入社し、水産技師として勤務[1]。1917年、東洋製罐を創立[1]。1938年、東洋製罐専修学校(後の東洋食品工業短期大学)を設立[1]。1942年、満洲重工業開発総裁に就任[1]。1947年公職追放、1951年同解除[1]。1952年、電源開発総裁に就任[1]。佐久間ダム建設などを成功に導いた他、御母衣ダム建設において「荘川桜」移植事業を発案、推進した事でも知られる。
1954年8月に電発総裁を退いた後、12月に鳩山一郎内閣で経済審議庁長官に就任。翌1955年、旧大阪3区から衆議院議員に初当選。以後連続当選4回。同年経済審議庁廃止に伴い、初代経済企画庁長官に就任。1958年、岸信介内閣でも通商産業大臣・経済企画庁長官・科学技術庁長官を兼任して入閣。1962年、中華人民共和国を訪問。廖承志との間で日中総合貿易(LT貿易)に関する覚え書きに調印した。 大阪府島上郡三箇牧村(現:高槻市柱本)の百姓兼紺屋に3番目の子として生まれた[1]。兄弟が多いせいもあってか、母の実家に預けられることが多かったという[1]。幼い頃の達之助はやんちゃだった[1]。 4年間を尋常小学校で過ごした達之助は、茨木の養精高等小学校(現・茨木市立養精中学校)に進み3年学んだ後、大阪府立第四中学校(現・大阪府立茨木高等学校)へと進学した。中学在学中には達之助の人生を左右する機会が訪れた。それは、政治地理の授業中に先生の言った「国土が狭小で資源の乏しい日本は繊維工業ではなく、四方を囲んだ海を利用して水産業で発展していく事こそ進むべき道である。日本にはその水産についての専門学校がある。農商務省直轄の水産講習所(後の東京水産大学→現・東京海洋大学)だ。」という言葉だった。その話に感化を受けた達之助は漠然と水産業の道を志すようになる。卒業の頃には首席になっていたが、周りが高等学校への進学を志望するなか、水産講習所の進学を決意した。
生涯
生い立ち