高砂_(防護巡洋艦)
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艦歴
発注1896年度計画
起工1896年5月29日
進水1897年5月17日
就役1898年5月17日
その後1904年12月13日 触雷沈没
除籍1905年6月15日
性能諸元
排水量基準:4,155t
全長118.2m(水線長)
全幅14.78m
吃水5.18m
機関二軸レシプロ蒸気機関、円缶(石炭専焼)8基
15,750hp
最大速22.5ノット
航続距離10ktで4,000浬
兵員380名
兵装40口径20.3cm単装速射砲2基
40口径12cm単装速射砲10基
40口径76mm単装速射砲12基
47mm単装速射砲6基
35.6cm魚雷発射管5門
装甲甲板水平部:63mm
甲板傾斜部:114mm
主砲防盾前面:203mm
主砲防盾側面:62mm
司令塔:114mm

高砂(たかさご)は、日本海軍二等巡洋艦防護巡洋艦[1][2]。艦名は加古郡加古川河口の高砂浦に由来する[3]日露戦争中の1904年(明治37年)12月13日旅順港閉塞作戦に従事中(旅順攻囲戦)、ロシア海軍の機雷により沈没した[4]
目次

1 概要

2 艦歴

3 艦長

4 同型艦

5 参考文献

6 脚注

7 関連項目

概要

日清戦争前の1893年に竣工した1番艦「吉野」より遅れること、日清戦争後の1896年に起工した。

一般には吉野と同型艦とされるが[5]、吉野型と独立して分類されることもある。吉野とは兵装、装甲などに違いがある。これは元々本艦が、1896年4月(もしくは5月29日)にアームストロング社エルジック造船所で起工された建造中の防護巡洋艦を、日本海軍が購入したものだからである。よって厳密には高砂は吉野の同型艦や準同型艦ではない。実際にはチリチャカブコ級防護巡洋艦の同型艦である。設計者は吉野と同じく、サー・フィリップ・ワッツである。
艦歴

1896年(明治29年)5月29日[3]イギリスニューカッスルアームストロング社エルジック造船所で起工[6]。1897年(明治30年)3月26日、日本海軍はイギリスとアメリカで建造の軍艦4隻を命名[1]。第三号二等巡洋艦は「高砂」と命名された[1][7]5月17日、「高砂」は進水[3]。1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、3,500トン以上7,000トン未満の巡洋艦を「二等巡洋艦」と定義[8]。該当する9隻(浪速高千穂厳島松島橋立吉野、高砂、笠置千歳)が二等巡洋艦に類別された[9][2]。「高砂」は5月17日に竣工[6]。呉鎮守府籍[10]。同年5月25日、サウスシールズを出港し[11][3]。日本に回航され、8月14日横須賀港に到着した[3]。回航員には、石橋甫(当時、高砂航海長。後日、高砂沈没時艦長)も含まれていた[12]

1899年(明治32年)10月19日より約一ヶ月間、明治天皇皇太子(嘉仁親王/大正天皇)は沼津御用邸を出発し、広島・兵庫両県下を行啓する[13]。海路での移動時には、装甲巡洋艦「浅間」を御召艦とし、供奉艦として巡洋艦3隻(常磐、高砂、明石)が同行した[13]。10月23日、皇太子は一時「高砂」に乗艦し、本艦を御召艦とした[14]

北清事変では1900年から翌年にかけて芝罘山海関大沽方面に出動した。

1902年(明治35年)6月16日から同月18日にかけて行われた、エドワード7世戴冠記念観艦式に参列のため、小松宮彰仁親王明治天皇名代)および伊集院五郎少将指揮下の巡洋艦2隻(高砂、浅間)は[15][16]イギリスを訪問後、ヨーロッパ各国を歴訪した[3]

1903年(明治36年)10月、皇太子(嘉仁親王/大正天皇)は和歌山県および瀬戸内海を巡啓することになり、「高砂」は皇太子の御召艦となった[17][18]。10月9日、皇太子は和歌浦で「高砂」に乗艦し、紀伊海峡を周遊する[19][20]由良要塞を巡視した[20]

翌日[21]、皇太子(高砂乗艦)は高松市に移動する[22][23]


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