高石ともや
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高石 ともや
「1.17ひょうご安全の日のつどい」交流ひろばでのミニライブにて
基本情報
出生名尻石 友也
生誕 (1941-12-09) 1941年12月9日(82歳)
出身地 日本 北海道雨竜郡雨竜町
学歴立教大学文学部日本文学科卒業
ジャンルフォークソング
ブルーグラス
職業シンガーソングライター
担当楽器
アコースティックギター
フィドル
マンドリン
バンジョー
活動期間1966年 -
レーベルEMIミュージック・ジャパン
ビクターレコード
共同作業者ザ・ナターシャー・セブン
公式サイト ⇒高石ともやのページ

高石 ともや(高石 友也、たかいし ともや、1941年昭和16年〉12月9日 - )は、日本フォークシンガー。代表作は「受験生ブルース」。
人物と略歴

1960年代後半の日本のフォークソングの創世期以来、現代に至るまで歌い続けている。また、マラソンランナーとしても活躍。本名は尻石友也。京都市在住。

1960年代後半、全国各地でメッセージ・フォークを歌い、「受験生ブルース」などの話題作も発表。1970年代に入り、ブルーグラスやトラディショナル・フォーク、日本の民謡などを歌い始める。ザ・ナターシャー・セブンとして活動の他、宵々山コンサートを始める。

使用する楽器は、ギターフィドルバンジョーハーモニカオートハープ、ベース、ドブロ・ギターマンドリントロンボーン、ボーラン(アイリッシュドラム)と多彩。

TVでは1980年代、NHK(中部地方)の番組「北陸東海」において、高石が東海・北陸7県を旅する「高石ともやの味な旅」に出演していた(なお番組出演者は後年、安田文吉(文さんの味な旅)を経て河島英五(英五のろまんちすと紀行)へと引き継がれている)。

ランナーとしても活躍し、国内外のマラソントライアスロンの大会にも数多く参加している。ホノルルマラソンには、第5回の1977年(36歳)の初参加以来、毎年連続出場している[1]

また、日本初のトライアスロン大会(第一回全日本トライアスロン皆生大会)にて優勝を飾っているほか、トランス・アメリカフットレース(アメリカ大陸横断レース)の第二回大会に参加し日本人初の完走者となっている。

1967年結婚。一女、一男あり。

琵琶湖ジョギングコンサートを27年続けている。

2012年7月、これから先20年走るために、狭窄症の手術を受ける。手術は40歳の時の胆石の手術以来で2回目。2回とも北山修の勧めで手術することになった。
活動の記録
1960年代後半 関西フォーク・アングラフォーク

1941年12月9日、北海道空知管内雨竜郡雨竜町に生まれる。家業は鮮魚店。無類の音楽好きだった兄の影響を受け、小学生のころはジャズファンで、中学では内緒で兄のギターをいじっている内に、ギターの魅力にとりつかれた[2]北海道滝川高等学校に入学してからはスチール・ギターに熱中、同級生3人でハワイアン・バンドをつくった(マヒナスターズものをやっていたが、歌はダメだった)[2]。二年生のときに吹奏楽部ができた際は真っ先に参加[2]。高校卒業後、キリスト教に興味があったことと経済的な理由で[3]、1960年に立教大学文学部日本文学科に入学(6年目に卒論「落語と落語家?その流れ」を、教授が毛筆で書いたら”優”をやるという理由で、全文毛筆で書き上げた[3])。学費を稼ぐため、新潟県赤倉スキー場や釜ヶ崎で土木作業員、エレベーターボーイ、氷の配達、屋台のラーメン屋、印刷屋、夜警、スキーのコーチ、家庭教師、清掃員[3]などをやりつつ、ピート・シーガーボブ・ディランらの歌を訳しフォークソングを歌い始める。1966年7月の大阪YMCAキャンプで初めて人前で歌い、1966年9月19日の大阪労音フォーク・ソング愛好会のコンサートが初ステージ。

1966年10月10日、アート・プロモーション主催のコンサート「第2回フォーク・フォーク・フォーク」に飛び入りで参加し、ここで秦政明に見出される。秦は高石を自宅に居候させ、マネジメントとプロモーションを始めた。

1966年11月頃より「高石友也」の名で活動を開始。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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