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出典検索?: "高知東生"
たかち のぼる
高知 東生
本名大崎 丈二(おおさき じょうじ)
別名義高知 東急(1993年 - 1998年)
生年月日 (1964-12-22) 1964年12月22日(59歳)
出生地 日本・高知県高知市
身長182 cm
職業俳優、歌手、タレント
ジャンル映画・テレビドラマ・CM
活動期間1993年 - 2015年
2018年 -
配偶者あいだもも(1991年 - 1996年)
高島礼子(1999年 - 2016年)
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高知 東生(たかち のぼる、1964年12月22日 - )は、日本の俳優、歌手、タレント、小説家である。高知県高知市出身。2015年秋頃芸能界を引退したが[1]、2018年からフリーで芸能活動を再開。元妻は、あいだももと高島礼子。 高知市立追手前小学校(閉校)[2]、明徳義塾中学校・高等学校卒業。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
来歴・人物
幼少期
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高知県高知市で幼少期を送る。物心ついた頃から両親はおらず、祖母と叔父夫婦に育てられた。家族の輪には入れてもらえず、誕生日ケーキや豪華な食事を自分だけ食べさせてもらえないこともあり、子供心ながらに辛かったという。祖母からは「あんたは犬と一緒に箱に入れられて、鏡川に捨てられていて、祖父が拾ってきた」と聞かされた(なお、実際には祖父は本人誕生前に亡くなっている。)[3]。
しかし、小学2年の時にそんな祖母から突然「あんたにとって大切なおばさんを紹介する」と告げられる。祖母に連れられて家の外に出ると真っ黒な車が数台並んでおり、車からスーツを着込んだ男性数人が出て来て、後部座席のドアに日傘を掲げられながら和服姿の女性が降りてきたという。この「おばさん」はたびたび彼の元に会いに来ては、野球のグローブやスパイクなどを気前よく買い与えた[3]。
小学5年のころには、彼女が母だと祖母から知らされ、母親と2人で一緒に暮らすことになる。当初は「自分にも母親がいた」という事実に喜んでいたが、実母は毎晩酔っぱらって帰ってくるような人間で、テーブルにお金だけ置いて2?3日帰ってこないため、いつの間にか嫌いになっていたという。「お父さんよ」と紹介された男性もいたが、彼もたまに家に来るかどうかという家庭環境であり、小学生ながらにして孤独な生活を過ごした[3]。
この男性は暴力団組員であり、三代目山口組では最高幹部を務め、後に一和会最高顧問となった中井組組長中井啓一であった[4]。高知の母親はその愛人であり、デパートに行くときですらスーツを着た若い衆たちが何人も車に乗ってついてきたという。本人も「うちは普通じゃない」と薄々感づいてはいたが、「もう捨てられたくない」という気持ちもあり、真実を母に確認したことはなかったという。この小学生時代に高知市街でスカウトされ、四国電力のCMに出演した経験がある。複雑な家庭環境の中で母や家族に対する嫌悪感が増していき、家庭から逃げ出したい一心で全寮制の明徳義塾中学校・高等学校に進学した[3]。
明徳義塾では野球部員となり、高校3年生の春に同校は初の甲子園出場を決めた(自身はベンチ入りせず)。この時期に長らく会っていなかった母と再会する。幼年期とは打って変わって仲の良い親子の時間を過ごしていたが、ある日突然母が自分で車を運転し、切羽詰まった様子で寮に押しかけ「今すぐ進路を決めてほしい」と迫ったという。「任侠の世界だけは絶対にダメと言うので、じゃあ、普通に就職するよと言ったら安堵した様子でした」と後に本人が語っている。高知と別れた一時間後、母は車でトンネルの入り口に突っ込み、自殺したという[3][5][6]。
母の死後、祖母と役所で戸籍を確認しに行った所、父親だと思っていた暴力団の親分とは血のつながりがなく、実父は別の人物だったと知らされた。実父も暴力団組員で他県で大親分をしていた人物であった、母はその人の愛人でもあった。「親父のくせに何してんだよ」という怒りをぶつけるために実の父親に会いに行ったが、彼が自分と同じ年齢くらいの息子と幸せそうに過ごす光景を見てしまい、何も言う気がなくなり引き返す。関わった大人が皆嘘をついており、誰も信用できなくなり、高知で暮らすことが苦しくなってしまい、地元を離れる決心をしたという[3]。 母の死後、20歳のとき[6]、矢沢永吉の『成りあがり』を片手に[5][6]、所持金6万円で上京[5][6]。矢沢と同じように横浜から自身のストーリーを始めるつもりだったが[6]、フェリーで行ったら東京に着いてしまい、どうやって横浜に行ったらいいのかも分からず[6]。ホームレスとなり、原宿を徘徊した[5][7]。後に、「死にたかったからホームレスになったわけじゃない。生きたかったからホームレスになった。居場所がどこかにあると信じていた。」と当時を振り返った[8]。夜はホストクラブで働き、成りあがるチャンスを伺う[6]。
上京