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人物情報
全名高畠素之
生誕1886年1月4日
群馬県前橋市
死没 (1928-12-13) 1928年12月13日(42歳没)
国籍日本
学問
研究分野哲学・マルクス学
主な業績カール・マルクス『資本論』全訳
主要な作品社會主義と進化論
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに資本論の原文があります。
高畠 素之(たかばたけ もとゆき、1886年1月4日 - 1928年12月23日)は日本の社会思想家、哲学者。資本論の全訳を行い、国家社会主義を唱えた。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
人物
出典検索?: "高畠素之"
旧前橋藩士の子息。クリスチャンとなり同志社大学に入るも、途中キリスト教を捨て中退。高崎市で社会主義雑誌『東北評論』を発刊、1908年新聞紙条例により禁固2ヶ月の刑を受け入獄、獄中で英訳のカール・マルクス『資本論』(1867年出版)に出合う。
1911年、売文社に入り社会主義活動に身を挺す。1915年、堺利彦・山川均らと『新社会』を発行することで、マルクス主義を紹介した。特に1917年からカール・カウツキーの『資本論解説』(原題『カール・マルクスの経済学説』、1887年出版)を翻訳したことは、彼のマルクス研究者としての地位を確固のものとした。
一方、折からのロシア革命の影響を受け、1918年1月、『新社会』に「政治運動と経済運動」を発表し、山川均・荒畑寒村らと社会主義運動の方法論をめぐって争った。この後、国家社会主義の傾向を深めたため、堺利彦・山川均らとは分裂し、国家社会主義運動の旗手となる。
1919年から1925年にかけて福田徳三らとともにカール・マルクスの『資本論』日本初の全訳に成功し、当時のマルクス研究の主要研究者と目されながらも、右翼団体・国粋団体と提携して右傾化の傾向を深めた。1923年1月、上杉慎吉らと経倫学盟を設立した[1]。他に翻訳・執筆本を多数発刊した。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
生涯
出典検索?: "高畠素之"
高畠素之の生涯は大きく三つの時期に分けられる。(1)生誕から社会主義思想家として立つまで、(2)そこから国家社会主義を提唱するまでのいわゆる正統派マルクス主義者の時代、(3)国家社会主義提唱から晩年までである。 高畠は、1886年(明治19年)1月4日、旧前橋藩士の五男として群馬県前橋市に生れた。 地元の旧制前橋中学に入学。在学中、前橋に訪れた海老名弾正や木下尚江の講演を聴き、キリスト教や社会主義に影響を受ける。 1906年(明治39年)、前橋中学校を卒業。経済的な問題から同志社(神学部。奨学金が給付されていた)に入学し、哲学と宗教を学ぶ。高畠の同志社入学時は日露戦争の直後であった。そのため平民社系の社会主義運動の影響を受け、遠藤友四郎
第一期 生誕
前橋に戻った高畠は、1908年(明治41年)5月、遠藤友四郎らと『東北評論』を発行し、地元柳川町で社会主義運動の第一歩を踏み出す。この頃の高畠は、時代の影響から正統派社会主義の論陣を張っていた。1908年(明治41年)には赤旗事件に対する筆禍に問われ、高畠は編集者として禁錮4月の判決を受けた。 1908年に出所した高畑は、新たな運動の可能性を求め神戸、大阪、名古屋を放浪。京都では第三高等学校の英語教師ケデーの門番をつとめたほか、夜間学校の英語教師も務めた。 一方、1910年(明治43年)9月には、社会主義者で『共産党宣言』翻訳者の堺利彦が、大逆事件で壊滅した日本の社会主義者のため、東京市四谷南寺町(現・須賀町)売文社を立ち上げ、その名の通りの売文稼業で生計を立てていた。堺はその後に大逆事件で死刑になった人々の遺族を弔うべく、西日本を旅していた。高畠に転機が訪れるのは、1911年(明治44年)頃に、岩崎革也
第二期 正統派マルクス主義者
こうして高畠は1911年(明治44年)9月、売文社に入社した。当時は大杉栄がフランス語を、高畠素之がドイツ語を担当していた。明治から大正初年にかけては、日本では社会主義者に対する取り締まりが極度に厳しかったため、売文社では、政府の圧迫を避けるため、『へちまの花』と題した文芸雑誌風の読み物を編集し、わずかに同志間の連絡を保つことしかできなかった。しかし第一次世界大戦による政治情勢の変化し、社会主義に対する取り締まりの軟化を見てとった堺は、直ちに『へちまの花』を『新社会』と改題し、1915年(大正4年)9月、社会主義運動を高唱し始めた[4]。
1916年(大正5年)には山川均が売文社に合流し、しばらくして売文社は堺利彦・山川均・高畠素之の合名会社となった。
高畠は、1917年(大正6年)から『資本論解説』の翻訳を開始。マルクス経済学の数少ない参考書を世間に発表する。また売文社でも、山川均とともに中枢的位置を占めるようになった。
第三期 国家社会主義の提唱