高田繁
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

2020年4月から伊勢崎清明高校で硬式野球部の監督を務めている「田繁」とは別人です。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。

田繁
この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Microsoftコードページ932はしご高))が含まれています(詳細)。

高田 繁東京ヤクルトスワローズでの監督時代
(2009年12月9日)
基本情報
国籍 日本
出身地大阪府大阪市住之江区
生年月日 (1945-07-24) 1945年7月24日(78歳)
身長
体重173 cm
70 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション外野手三塁手
プロ入り1967年 ドラフト1位
初出場1968年4月6日
最終出場1980年10月20日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


浪商高等学校

明治大学

読売ジャイアンツ (1968 - 1980)

監督・コーチ歴


日本ハムファイターズ (1985 - 1988)

読売ジャイアンツ (1992, 1996 - 2001)

東京ヤクルトスワローズ (2008 - 2010)

この表についてこの表はテンプレートを用いて表示しています。編集方法はTemplate:Infobox baseball playerを参照してください。

■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

高田 繁(たかだ しげる、1945年7月24日 - )は、大阪府大阪市住吉区(現・住之江区)出身の元プロ野球選手外野手内野手)・コーチ監督横浜DeNAベイスターズゼネラルマネージャーを経て、現在は横浜DeNAベイスターズのフェロー[1]

セ・リーグ初の外野手部門のダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデングラブ賞)を受賞している[2]
経歴
プロ入り前

大阪市立加賀屋中学校時代は成績優秀であったため、当初は大阪府立岸和田高校への進学を希望していたが、野球をしたいがために途中で志望を変更。最終的には1961年浪商高校へ入学し、1年次の同年は2年生エース・尾崎行雄を擁して夏の甲子園に出場。準決勝では甲子園で二度敗れている法政二高と対戦し、尾崎と法政二高のエース柴田勲との投げ合いとなり、延長11回の熱戦の末4-2で勝利。決勝では和歌山県立桐蔭高校に苦戦するが1-0で降し優勝を飾る[3]。高田は1年生で唯一のベンチ入りメンバーとなっていた。ベンチ入りできる最後の背番号「14」をもらっていたが、当時の左翼手は、後に薮田安彦の父となる薮田明がレギュラーであった。ところが甲子園で病気になって、2回戦から高田が出場することになった。この時のチームメートには、いずれも3年生の大塚弥寿男住友平大熊忠義が揃っていた。尾崎を擁し3番打者・右翼手として同年の秋季近畿大会府予選に出場。決勝で中塚政幸のいたPL学園高校を破るが、直後の11月6日に尾崎は高校を中退しプロ入り、エースを失った浪商は近畿大会1回戦で滋賀県立甲賀高校に敗れた。その後は竹内啓監督から「お前が投げろ」と尾崎の後継に指名され[4]、2年次の1962年から投手に回り、夏は大阪大会準々決勝で溜池敏隆のいた興国商業高校に敗退[3]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:138 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef