高田派
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真宗高田派本山専修寺にある宗務院
法人番号4190005000733
法的地位宗教法人
本部三重県津市一身田町2819番地
法主慈祥
ウェブサイト ⇒www.senjuji.or.jp
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真宗高田派(しんしゅうたかだは)は、三重県津市専修寺を本山とする浄土真宗の一派。

親鸞の門弟真仏顕智が率いる下野国高田(現在の栃木県真岡市高田)の専修寺を中心とする高田門徒の流れを汲む。末寺数、約640寺。
歴史
草創期

承元元年(1205年)に後鳥羽上皇によって法然とその門下が行っていた専修念仏は停止され、親鸞越後国に配流された(承元の法難)。承元5年(1211年)、親鸞は赦免されると信濃国善光寺に参り、その足で常陸国に赴いてその地で布教活動を行った。

やがて親鸞は常陸国の稲田の草庵を拠点とし、元仁元年(1224年)4月15日、浄土真宗の教義の骨格ともいえる『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)の草稿本を完成させた。このため、今日浄土真宗ではこの日をもって立教開宗の年としている。

そして翌、嘉禄元年(1225年)に親鸞は、「高田の本寺を建立せよ」、次いで「師の願い満足す。速やかに善光寺に来るべし。我が躯を分かちて汝に与えるなり」との如来の夢告があり、弟子2人と善光寺に赴いた。そして善光寺からその本尊である一光三尊仏の写しをもらい受けると、真岡城大内氏の懇願により建てられた下野国高田の寺院に安置した。これが本寺高田専修寺と高田門徒・真宗高田派の起源である。そして現在もこの一光三尊仏は本寺専修寺の本尊である。

翌、嘉禄2年(1226年)、朝廷から高田の寺院に「専修阿弥陀寺」の名と勅願寺に指定するとの綸旨を頂戴し、寺の名称を専修寺に改めた。これにより、親鸞の教化活動は遊行から専修寺中心に変わり、建立後約7年間この寺で過ごしたとされている。

親鸞が京都に帰ってからは高田門徒の中心人物であった親鸞の高弟真仏が専修寺の第2世となり、引き続き高田門徒を率いて布教活動などを行い、その死後は第3世顕智が高田専修寺を継承した。顕智は三河国で布教して円善を弟子とし、やがてそこで和田門徒が構成されていった。

延慶2年(1309年)、親鸞の廟所である京都の大谷廟堂の留守職を巡って覚如と叔父の唯善が争い、敗訴した唯善が廟堂を破壊して鎌倉に逃亡する事件が起きた。その為、この後の大谷廟堂の復興は顕智が中心となって行われた。しかし、第4世専空以後は、大谷廟堂を大谷本願寺として寺院化し独自路線を取り始めた覚如と本願寺に対し次第に距離を置き始めた。

寛正5年(1464年)、第10世となった真慧は高田派中興の祖とされる。真慧は布教と仏事に「野仏」と「野袈裟」を使用して関東地方だけでなく東海地方北陸地方にまで教線を拡げていき門徒を増やしていった。この頃の高田派は浄土真宗内でも佛光寺派に次ぐ第二の勢力を誇っていた。真慧は特に越前国加賀国で積極的に布教を行っていたが、当時ここには高田派の流れをくむ三門徒の勢力が強かった。

三門徒とは、顕智の弟子の円善が和田門徒を率いて越前国で布教を行い、そこで如道を弟子とし、その如道が中心となって出来上がった如道教団のことである。その後に専照寺(後に真宗三門徒派 本山)、誠照寺(後に真宗誠照寺派 本山)、證誠寺(後に真宗山元派 本山))の三山が中心となっていったのでそう呼ばれる。が、それら三門徒から高田派に、また時衆からも宗旨を替える者も出始め高田派はますます勢いを増していった。
戦国時代

だが、せっかく増えていった門徒や末寺であったが、真慧の友人であり本願寺派第8世でもあった蓮如の布教活動により、天台宗青蓮院末寺となって衰微していた本願寺の威勢が上がり、本願寺派に転属してしまう門徒や末寺が現れだした。

寛正6年(1465年)になると、天台宗延暦寺は正月早々に以前から対立していた蓮如を「仏敵」とし、延暦寺西塔の衆徒が一斉に大谷本願寺を襲って破却し、3月に再び本願寺を破却した(寛正の法難)。そんな中、延暦寺は高田派と本願寺派との違いがあまり理解できなかったのか、高田派を本願寺派と同一視して敵視してきた。そのために7月になって真慧は比叡山に登り、専修寺門流(高田派)は無碍光流(本願寺派)とは全く別であることを陳述した。さらに寺伝によると、その理解を得ようと7日間にわたって親鸞の教えである浄土真宗の教義を講義したところ比叡山中の僧侶が感動し、真慧は親鸞聖人の再来ではないのかとの噂まで出だした。こうして、高田派こそ浄土真宗の正統だと認められ、慈覚大師が一刀三礼で彫り上げた阿弥陀如来立像を延暦寺から譲られたとする(証拠如来縁起)。以来、現在もこの「証拠の如来」と呼ばれている阿弥陀如来像が一身田本山専修寺の本尊である。しかしこの後、延暦寺の威勢には勝てず、専修寺も延暦寺東塔の末寺となってしまう。

また同年、伊勢国の門徒の懇請によって伊勢一身田に無量寿院を建立し、西国での重要拠点とし、そして本願寺が高田派の末寺と門徒を引き抜いた件で蓮如に抗議し、本願寺派との関係を断った。

文明5年(1473年)、加賀で守護富樫氏が家督争いを起こした際、高田派は富樫幸千代につき、本願寺派は富樫政親について合戦が行われたが、翌文明6年(1474年)、本願寺派の一揆(一向一揆)と結んだ政親が勝利し、幸千代は加賀から追放されて高田派は逼塞を余儀なくされた。さらにこの時期、蓮如が越前に吉崎御坊を建立して本格的に越前・加賀を布教していたために高田派や三門徒の末寺・門徒の多くが本願寺派に宗旨替えを行っていったこともあり、高田派の勢いは衰えていった。だがそれでも、文明10年(1478年)3月に高田専修寺を皇室の祈願所とするとの後土御門天皇の綸旨が下付され、真慧は「上人号」も勅許される。長享元年(1487年)10月には法橋だった真慧に法印が叙された。

長享2年(1488年)6月、加賀で本願寺派が一向一揆を起こして守護の富樫政親と合戦を行った(加賀一向一揆)。この時に高田派は今度は政親に味方して再び本願寺門徒と戦うが政親は敗れて高尾城で自害し、本願寺派が加賀を占領した。そのため本願寺派に転宗する者も続出し、やむなく多くの高田門徒は加賀から出て行ってしまった。そしてこの時、政親の妻が我が子を連れて加賀を逃れて真慧の下に身を寄せて、やがて真慧の内室となった。この連れ子こそ後の応真である。

永正3年(1506年)7月、加賀の本願寺門徒が越前へ攻め入込んできたため、高田門徒や三門徒は朝倉貞景に味方した。そして九頭竜川の戦いで朝倉軍が勝ち、本願寺派の有力寺院である和田本覚寺と藤島超勝寺は越前から追放されて加賀に逃れた。以降越前では本願寺派は禁教となり、残された本願寺派の門徒は大半が高田派に宗旨替えを行ったので高田派は越前での勢いを取り戻した。
相続争い

永正7年(1510年)6月、長らく伊勢にいる真慧であるが、一応いまだに高田派本山である下野高田専修寺の住持職を応真に譲ろうとした。高田専修寺の住持は高田派の法主を意味している。が、応真がこれを辞退したため、常盤井宮家出身で、後柏原天皇の猶子であった真智を養子とし、真智に跡を継がそうとした。そして永正9年(1512年)10月に第10世の真慧が亡くなると翌11月後柏原天皇は真智に対して高田専修寺の住持職を承認した。しかし、真智が専修寺の住持を相続したことに反発し、それを認めない僧たちが続出し、彼らは真智に対抗するために応真を擁立し、ここに応真と真智との間で相続争いが発生した。

翌年の永正10年(1513年)2月、応真派の反撃によって天皇は逆に応真に対して専修寺門流の正統を承認する綸旨を出した。だが真智派の反撃は早かった。12月に天皇は一転して応真への綸旨を棄破し再び真智の高田専修寺住持職を承認した。また真智に末代紫衣を着し参内して宝祚延長を祈ることをも命じた。真智は後柏原天皇の猶子でもあったので有利な立場だったのは当然ともいえる。真智は三河の桑子明眼寺・菅生満性寺などの有力寺院の支援を受け、ますます応真との対決姿勢を強めていった。

しかし、応真派の巻き返しもあってなんとか永正17年(1520年)9月、室町幕府は応真の高田専修寺住持職を承認、翌永正18年(1521年)6月には天皇も応真に対して専修寺下野流の相続を承認した。

そして、翌大永2年(1522年)、この頃一身田専修寺とも言うようになってきた一身田無量寿院を応真が継ぐ代わりに、応真は真智の付弟となることとなった。


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