高田根麻呂
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 凡例高田根麻呂
時代飛鳥時代
生誕不明
死没白雉4年(653年7月
官位大山下
主君孝徳天皇
氏族高田
新家
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高田 根麻呂(たかた の ねまろ)は、飛鳥時代豪族冠位大山下。「更の名は八掬脛(やつかはぎ)」とある[1]
出自

「高田首氏」は『新撰姓氏録』では、「右京諸蕃」に分類され、「出自高麗国人多高子使主也」とあり、高句麗系の渡来氏族である。『日本書紀』巻第十六の武烈天皇3年(501年)に、是(こ)の月(つき)に、百済(くだら)」の意多郎(おたら)卒(みう)せぬ。高田丘(たかたのをか)の上(へ)に葬(はぶ)る。[2]

とあり、この高田丘を拠点としていたとされている。この墓は享保10年(1725年)の『大和志』によると、大和国葛下郡岡崎村とあり、現在の奈良県大和高田市岡崎だろうとされている。
記録

白雉4年(653年)、遣唐第2船の大使として、計120名を率いて、に派遣された。このときの位は大山下であった[1]

ところが、同年7月、大唐(もろこし)に遣さるる使人(つかひ)高田根麻呂(たかた の ねまろ)等(ら)、薩麻(さつま)の曲(くま)・竹嶋(たけしま)の間(あひだ)に、船(ふね)合(こぞ)りて没死(おち)りぬ。

とあり、出航からひと月半で、船の衝突により遭難死した。この時、ただ5人だけが胸を一板にかけて、竹嶋へ流れ着いた、という。そこから更に竹で筏を組み、神嶋(しときしま、今の甑島列島上甑島)へ辿りついた。この5人は6日6夜、何も食べなかったという[3]

遣唐使派遣初期の悲劇であった。この時、何らかの事情で南島路をとっていたことが分かる。
脚注[脚注の使い方]^ a b 『日本書紀』孝徳天皇 白雉4年5月12日条
^ 『日本書紀』武烈天皇3年11月条
^ 『日本書紀』孝徳天皇 白雉4年7月条

参考文献

『日本書紀』(三)・(四)、
岩波文庫、1994年、1995年

『日本書紀』全現代語訳(上)・(下)、講談社学術文庫宇治谷孟:訳、1988年

『日本の歴史2 古代国家の成立』、直木孝次郎:著、中央公論社、1965年

『日本の古代3 海をこえての交流』、大林太良:編、中公文庫、1995年

『日本古代氏族事典』【新装版】佐伯有清:編、雄山閣、2015年

関連項目

吉士長丹

吉士駒

道昭

定恵

伊吉博徳

掃守小麻呂


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