高田松原(たかたまつばら)は、岩手県陸前高田市気仙町の太平洋(広田湾)岸にある松原である。以下、本項において「松原」と略記する。
かつては約7万本の松[1]が2キロメートルの砂浜に茂っていたが、東日本大震災(2011年)による津波で奇跡の一本松を残して壊滅した。その後、植樹による再生が4万本を目指して進められ[2]、2021年5月18日に完了した[3]。 松原は江戸時代の1667年(寛文7年)から1673年(延宝元年)にかけて、山際の高田・気仙川沿いの今泉両地区の防災のために[4]高田の豪商・菅野杢之助によって植栽され、仙台藩と住民の協力によって6,200本のクロマツが植えられた。しかし半数が枯れてしまったため、さらに18,000本のクロマツを補植[5]。その後、享保年間(1716年 - 1736年)には松坂新右衛門による増林が行われ、その後も陸前高田に住む人たちによって植えられた、クロマツとアカマツからなる合計7万本もの松林は、仙台藩・岩手県を代表する防潮林となり、景勝の一つであった。その白砂青松の景観は世に広く評価されていた。石川啄木と金田一京助は、盛岡中学(現・岩手県立盛岡第一高等学校)時代に行った徒歩による遠足の終点として当地を選んだ。 国の名勝や陸中海岸国立公園(現・三陸復興国立公園)に地域指定され、様々な環境評価・施設評価の選定地となり、2009年(平成21年)には104万人の観光客が訪れるなど観光地としても賑わっていた[6]。また高田松原海水浴場は、ウィンドサーフィンやヨット、ボートなどマリンスポーツも盛んな場所であった[7]。 松原の防潮林はたびたび津波に見舞われてきた。近代以降で代表的なものとしては、1896年(明治29年)6月15日の明治三陸津波、1933年(昭和8年)3月3日の昭和三陸津波、1960年(昭和35年)5月24日のチリ地震津波がある。これらの津波のたびに、松原は防潮林として市街地への被害を防いできた。 しかし、2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)では、10メートルを超える大津波に呑み込まれ、ほぼ全ての松がなぎ倒され壊滅した[6][8]。また砂浜も津波や地盤沈下で9割が失われた[9]。 一方、文化庁は「地形が残っている」として名勝の指定を継続した[10]。 倒れた松の一部はボランティアの手で薪として販売され、売り上げは復興資金として寄付される予定であった[11]。一部は、清水寺の大日如来坐像に使用された[12]ものの、2011年8月16日の京都・五山の送り火の薪として使用される予定が、福島第一原子力発電所の事故による放射性セシウムが検出され、二転三転した末に使用中止になったり[13]、2011年9月には成田山新勝寺で被災松を護摩木としておたき上げすることに対し抗議が多数寄せられたり[14]するなど、復興支援と放射能汚染への不安の間でしばしば議論を呼んだ。 2012年2月10日、東日本大震災の復興政策を統括する復興庁が発足し、本庁の看板にはなぎ倒された松原の松が使われた[15]。同年7月2日から、郵便事業陸前高田支店において、奇跡の一本松を図案化した風景印の使用が始まった。
歴史
東日本大震災による被災津波により壊滅した高田松原と陸前高田市街地復興庁の看板掛けを行う内閣総理大臣野田佳彦(左)と復興大臣平野達男(右)。2012年2月10日、三会堂ビルにて。