「高市早苗」とは別人です。
高田 早苗
人物情報
別名_之助(幼名)
半峰(号)
生誕 (1860-04-04) 1860年4月4日(安政7年3月14日)
武蔵国江戸深川(現・東京都江東区)
死没 (1938-12-03) 1938年12月3日(78歳没)
国籍 日本
出身校東京大学文学部
配偶者不二子(前島密長女)
学問
研究分野政治学、法学(国法学)
学位法学博士(日本・1901年)
主要な作品『英国政典』(1885年)
『英国憲法史』(1886年)
学会帝国学士院
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日本の政治家高田 早苗
所属政党(立憲改進党→)
(進歩党→)
(憲政本党→)
同成会
第27代文部大臣
内閣第2次大隈内閣
在任期間1915年8月10日 - 1916年10月9日
貴族院議員
選挙区(勅選議員)
在任期間1915年5月19日 - 1938年12月3日
衆議院議員
選挙区(埼玉県第2区→)
埼玉県郡部
当選回数6回
在任期間1890年7月1日 - 1897年12月25日
1902年8月10日 - 1903年12月11日
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初期東京専門学校の学生と教員(前列右から坪内逍遥、天野為之、高田早苗)[1]早稲田大学早稲田キャンパスにある高田早苗像、藤井浩佑作、1932年。
高田 早苗(たかた さなえ、1860年4月4日(安政7年3月14日) - 1938年(昭和13年)12月3日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の政治家・政治学者・教育者・文芸批評家。学位は、法学博士。号は半峰。
衆議院議員、貴族院議員、文部大臣、早稲田大学総長[2]などを歴任した。 1860年4月4日(安政7年3月14日)、江戸・深川(現在の東京都江東区)に生まれる。神田の共立学校(現・開成中学校・高等学校)や官立の東京英語学校(のちの一高)などで英語を学び、大学予備門を経て、1882年(明治15年)に東京大学文学部哲学政治学及理財学科を卒業。文学部の授業では外山正一、中村敬宇、信夫恕軒の授業に感化され、黒川真頼の授業が一番役に立ったという[3]。 法学者の小野梓と知り合い、大隈重信の立憲改進党に加わる。また、大隈と共に東京専門学校(現在の早稲田大学)の設立にも参加し東京専門学校評議員・講師となり、早稲田の運営に力を注いだ。1887年から1890年末まで読売新聞主筆[4]。1901年、法学博士。「Category:法学博士取得者」を参照 1907年、早稲田大学が総長・学長制を敷くと、初代学長に就任(初代総長は大隈重信)。1923年(大正12年)5月から1931年(昭和6年)6月まで同大総長[2]。1928年、帝国学士院会員。 教育者として早稲田大学の運営に携わる間に、1890年(明治23年)、第1回衆議院議員総選挙に埼玉二区(現川越市)から立候補し全国最年少で当選、立憲改進党系の政党に参加し、通算6期務めた。主筆退任の時期は第1回帝国議会召集の時期に重なる。1897年第2次松方内閣(大隈と連立した松隈内閣)で外務省通商局長、1898年第1次大隈内閣(隈板内閣)で文部省参事官、高等学務局長、参与官兼専門学務局長となる。1897年、外務省に入るに際して株主として経営に参画していた読売新聞からの退社を広告した[5]。1903年12月の議会解散以後は政界から暫く離れた。 1915年5月19日貴族院議員に勅選され[6]、また、8月には第2次大隈重信内閣の内閣改造で文部大臣として入閣した。 早稲田大学の式服や式帽、校旗などを定めることを発案し、職制なども定め、また、早稲田大学教旨の制定を発議した[7][8]。現在、早稲田大学にある高田早苗記念研究図書館は、高田の早稲田大学への功績をたたえて名づけられた。 1925年(大正14年)3月23日、仮放送を開始したばかりのラジオに出演し、「新旧の弁」と題する講演を行った。これが日本最初の教育放送である[9]。 1931年(昭和6年)6月、病気を理由に早大総長を辞任。翌月10日の臨時維持員会は高田の名誉総長推薦を決議したが[10]、高田はこれを固辞して悠々自適の隠居生活に入った。1938年(昭和13年)12月3日死去。葬儀は大隈講堂で大学葬により行われた[11]。 妻は前島密長女。戒名は明教院顕誉半峰居士。墓所は豊島区駒込の染井霊園。
略歴
栄典
位階
1897年(明治30年)5月31日 - 正五位[12]
1938年(昭和13年)2月11日 - 正三位[13][14]