高田延彦
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田 延彦基本情報
本名田 伸彦
通称アイ・アム・プロレスラー
国籍 日本
生年月日 (1962-04-12) 1962年4月12日(62歳)
出身地 日本 神奈川県
所属田道場
身長183 cm
体重93 kg
階級ヘビー級
バックボーンプロレスUWFスタイル)
テーマ曲Training Montage(演奏:ヴィンス・ディコーラ)
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YouTube
チャンネル

Nobuhiko Takada 田延彦

活動期間2019年5月28日 -
登録者数1.4万人
総再生回数981,721 回
チャンネル登録者数・総再生回数は
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田 延彦(たかだ のぶひこ、本名:田 伸彦(旧リングネームの表記は高田 伸彦)、読みは同じ、1962年4月12日 - )は、日本男性プロレスラータレント実業家YouTuber神奈川県横浜市戸塚区(のちの泉区)出身。田道場主宰。レプロエンタテインメント所属。妻はタレント向井亜紀
来歴
新日本プロレス

少年時代は長嶋茂雄に憧れる野球少年で、少年野球ではオール浜に選出されるが、長嶋の引退と同時に野球熱が冷める[1]。その後アントニオ猪木に憧れて、中学生になった頃にはプロレス入りを決意[2]中学校卒業後、アルバイトをしながら独自の方法で体を鍛え[3]1980年新日本プロレスへ入門した[4]。道場では藤原喜明前田日明が兄貴分的な存在となり、スパーリングで鍛えられた[5]。太りにくい体質で、新弟子時代は毎月のように体重のノルマを課せられて、それをクリアできなければ解雇される状態だった[6]

1981年5月9日に対保永昇男戦でデビュー[7]。この頃の得意技は跳躍力を活かしたミサイルキック

1982年からはアントニオ猪木の付き人を務める[8]1983年に猪木がカナダ遠征をした際に付き人として同行しており、欠場した初代タイガーマスクの代わりにたまたま試合に出場したところ、ジャパニーズレッグロールクラッチで勝ちを収め、高田のテレビ中継デビュー試合でもあり、ポストタイガーマスクとして一躍注目を集める存在となった[9]。それまでは前座で勝てなかった先輩達(新倉史祐小杉俊二)から勝利を収め、代打の形でテレビマッチにも抜擢されるようになり、「青春のエスペランサ」の異名がつけられた。当時の入場テーマ曲は「疾風のライダー」という曲でUWF移籍前の新日本時代にかかっていた。また、ジュニア戦線での闘いを意識してローリングソバットを多用していた。
第1次UWF

1984年に師匠藤原喜明の誘いで[10]、新日本を離脱し、オープニングシリーズでは選手貸出しの形で参戦していたUWF(旧UWF、第1次UWF、ユニバーサル)に移籍して前田日明と合流。当時遙かに格上だったマーク・ルーインから勝利を収め、同時期にUWFに移籍した山崎一夫らと名勝負を繰り広げたものの、予定されていたアントニオ猪木の不参加などの要因で団体は崩壊。
新日本プロレス

UWF所属選手は新日本へ合流し、新日本に参戦した期間には、越中詩郎を好敵手として「新・名勝負数え唄」と呼ばれる好試合を繰り広げ、IWGPジュニアヘビー級王座のベルトを争った[11]。また、当時『ワールドプロレスリング』の実況を担当していた古舘伊知郎から「わがままな膝小僧」の異名を付けられた(キックを多用するファイトスタイルから。「戦うジェームズ・ディーン」「命知らずの美青年」とも)。この当時は女性ファンからの人気も高くバレンタインデーにはチョコレートが段ボール箱2、3箱届いていた[12]
第2次UWF

1988年、前田日明、山崎一夫らと共に第2次UWFを立ち上げる。第2次UWFでは前田に次ぐナンバー2の序列で[13]、前田、山崎とともに「前高山」と言われた[14]。第2次UWFは一世を風靡したものの、人間関係の不和から、1991年に前田のリングス藤原喜明藤原組、田のUWFインターナショナルの3団体に分裂。
UWFインターナショナル

UWFインターナショナルを設立し、社長に就任[15]。「最強」を肩書きにした高田[16]は団体の絶対的エースとして[17]ゲーリー・オブライト北尾光司スーパー・ベイダーサルマン・ハシミコフら強豪選手との対戦などで人気を博し、1992年にはプロレス大賞のMVPである年間最優秀選手に選ばれる。


1994年4月からはフジテレビのスポーツニュース番組「スポーツWAVE」のキャスターを務めるまでになる[18][19](試合があった日も生放送に出演していた)。1994年1月にタレントの向井亜紀と挙式した[20]

高田以外に知名度のある選手がほとんどおらず、スポンサーやテレビもついていないUWFインターの経営は1994年頃に苦しくなり、社長業が高田を精神的に苦しめるようになる[21]1995年6月に「近い将来、引退します」とマイクで宣言し[22]、さらに同年7月の参議院選挙にはさわやか新党から比例名簿順位2位で出馬するも落選[23]。8月には田村潔司から「僕と真剣勝負してください」と挑戦を受けるが拒否した[24]。数々のトラブルと選手離脱により倒産が現実味を帯びたUWFインターは新日本プロレスとの対抗戦に踏み切り、1995年10月9日「新日本プロレス VS UWFインターナショナル全面戦争」における大将戦・武藤敬司IWGPヘビー級王者)戦に敗北したことで、最強を標榜してきた高田とUWFインターは決定的なイメージダウンを受ける[25]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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