高田保
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、作家について説明しています。かつて「高田保」の芸名を用いた元俳優・写真家については「矢頭保」をご覧ください。

高田 保
1950年(昭和25年)撮影
誕生 (1895-03-28) 1895年3月28日
茨城県新治郡土浦町[1]
死没1952年2月20日(1952-02-20)(56歳)
神奈川県中郡大磯町[2]
墓地大磯町の高田公園と土浦市高翁寺
職業劇作家映画監督演出家随筆家
国籍 日本
最終学歴早稲田大学(英文科、1917年)[1]
ジャンル新劇プロレタリア劇商業演劇
代表作戯曲『天の岩戸』、戯曲集『人魂黄表紙』、随筆『ブラリひょうたん』
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示
茨城県土浦市にある高田保像

高田 保(たかた たもつ[1] / たかだ たもつ[3]1895年明治28年)3月28日[1][註 1] - 1952年昭和27年)2月20日[1])は、茨城県出身の劇作家随筆家。俳号は羊軒[1]。母方の従兄に近世文学研究者の山口剛がいる。
略歴

1895年、茨城県新治郡土浦町(現在の土浦市)の旧家に生まれる。子供の頃より気遣いが出来てまた話も面白く、同級の者以外とも交流するなど人望が厚かったという[5]。旧制土浦中学校(現在の茨城県立土浦第一高等学校)を経て早稲田大学英文科へと進んだ。大学在学中から新劇運動に参加して宇野浩二を知るようになる。また、在学中に創立者・大隈重信の妻の銅像を建てるかの問題で「銅像事件」と呼ばれる騒動が起きるが、その時代を描いた尾崎士郎の小説『人生劇場・青春編』に、高田をモデルとした「吹岡早雄」という人物が登場している。上京した高田はモダンボーイとなるべく頻繁に銀座へ通って学生生活を謳歌した[5]1917年大正6年)に早稲田大学を卒業する[1]

卒業後はペラごろとなって浅草公園の興行街で居所を転々とした後、「活動倶楽部」や「オペラ評論」の雑誌記者となる[1][6][7]。この頃に古海卓二根岸寛一と知り合い映画に接する様になり[1]1922年(大正11年)に根岸興行部の経営する浅草オペラの代表格である「金龍館」の文芸部に入った[8]。この年、『案山子』で帝国劇場の戯曲懸賞に入選する[6]。このとき他の入選者に永井龍男川口松太郎がいた。高田は戯曲の本場の地であるパリに対して憧憬の念を抱き、パリが舞台の作品を読み漁った。演劇修養のためパリへの留学を切望していたが、資金不足によりこれは果たせなかった[8]1924年(大正13年)、文芸雑誌「新小説」に戯曲「天の岩戸」を発表して劇作家として認知されるようになった[1][7]

1927年(昭和2年)には戯曲集「人魂(ひとだま)黄表紙」を刊行する[1]1929年(昭和4年)に新築地劇団に加わってプロレタリア劇作家として活躍するが、翌1930年(昭和5年)に特高による検挙を受けて転向して新劇運動からは退いた[1][6][7]。また、この頃の高田は映画監督としても活動し、1925年(大正14年)の「水の影」、1932年(昭和7年)の「少年諸君」など3本の映画を製作している。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:29 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef