高田三郎
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この項目では、クラシック、キリスト教系の作曲家について説明しています。

その他の同名人物(「高田」表記を含む)については「高田三郎 (曖昧さ回避)」をご覧ください。

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田 三郎
生誕 (1913-12-18) 1913年12月18日
出身地 日本愛知県名古屋市
死没 (2000-10-22) 2000年10月22日(86歳没)
学歴武蔵野音楽学校
東京音楽学校
ジャンルクラシック合唱宗教音楽
職業作曲家指揮者
ポータル クラシック音楽

田 三郎(たかた さぶろう、1913年大正2年)12月18日 - 2000年平成12年)10月22日)は、日本作曲家指揮者合唱曲を中心に作曲を行ったほか、自作を中心に指揮者としても活躍した。日本のカトリック教会で歌われる典礼聖歌を作曲したことでも知られる[1]

名字は「高田」ではなく「田」(いわゆるはしご)が正式な表記である。
生涯

愛知県名古屋市に生まれる。愛知県第一中学校(現:愛知県立旭丘高等学校)を経て、武蔵野音楽学校(現:武蔵野音楽大学)師範科で呉泰次郎和声法を師事する[2]。次いで東京音楽学校(現:東京藝術大学)の本科作曲部を1939年に卒業し、さらに同校研究科作曲部、同校聴講科指揮部で学んだ。この間に信時潔クラウス・プリングスハイムヘルムート・フェルマーマンフレート・グルリットらに作曲を、福井直俊にピアノを師事する[2]。この頃の作品として、管弦楽曲『山形民謡によるファンタジーと二重フーゲ』(1941年。後、『山形民謡によるバラード』と改題)や、歌曲『風のうたった歌』(1942年)がある。この2曲はほどなくして出版され、今日までしばしば再演される作品となった。また、副科でホルンを習得し、1940年の紀元二千六百年奉祝管弦楽団にはホルン奏者として加わっている。

1948年平尾貴四男安部幸明貴島清彦とともに作曲団体「地人会」を結成する。西洋および日本の音楽の伝統を尊重しつつも、安易に「輸出用音楽や虚偽の民族性」(髙田三郎「地人会はどう進んできたか」『音楽芸術』1953年4月号による。ここでは外国人受けや、民族主義の高揚を軽々しく狙った作品を指すのだろう)によりかからない態度を表明した。この会の活動は1955年まで続き、高田はここで『ヴァイオリンとピアノのための奏鳴曲』や『チェロとピアノのための小奏鳴曲』などを発表する。同年(1955年)、詩人と作曲家、声楽家による団体「蜂の会」の結成に参加した。ここで初演されたものに男声合唱組曲『海』などがある。この頃を境に声楽、特に合唱作品へ力を注ぐようになった。

NHKから芸術祭のために合唱曲を委嘱されたことを機に詩人高野喜久雄と出会った彼は、その委嘱作品『わたしの願い』(1961年)を皮切りに、合唱組曲『水のいのち』(1964年)、『ひたすらな道』(1976年 - 1967年)、『内なる遠さ』(1978年)、『確かなものを』(1987年)、歌曲集『ひとりの対話』(1965年 - 1971年)を作曲した。とりわけ『水のいのち』は、混声版、女声版、男声版合わせて200刷を突破するほどに多くの人に歌われ、今日に至るまで日本における合唱楽譜の売上の上位にありつづけている。

一方、指揮では戦後しばらくまで放送などで活動していたものの、やがて自作のみに限定し、録音や合唱団の客演指揮で活躍した。厳しい指導で知られていたが、その演奏に対しては「日本の合唱曲の演奏はすべて自分が一番よい」とする木下保が、「髙田三郎の曲だけは、彼が自分でやった方がいい」と述べたというエピソードがある。髙田の指導を受けた合唱指揮者は数多く、さまざまなかたちで彼の作品演奏に尽力した。1993年から彼の作品個展演奏会「リヒト・クライス」の主宰にあたっている鈴木茂明、男声合唱版のない合唱曲について、それへの編曲を行った須賀敬一や今井邦男、「髙田三郎合唱作品全集」をスタートさせた辻正行などが挙げられる。


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