高瀬舟
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、日本における河川用の貨物船について説明しています。森?外の小説については「高瀬舟 (小説)」をご覧ください。
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}}復元された高瀬舟京都市を流れる運河高瀬川」にて。川の名は「高瀬舟」にちなんでいる。

高瀬舟(たかせぶね、.mw-parser-output .lang-ja-serif{font-family:YuMincho,"Yu Mincho","ヒラギノ明朝","Noto Serif JP","Noto Sans CJK JP",serif}.mw-parser-output .lang-ja-sans{font-family:YuGothic,"Yu Gothic","ヒラギノ角ゴ","Noto Sans CJK JP",sans-serif}旧字体:高P舟)もしくは高瀬船とは、日本各地で使用されていた川舟、川船(かわぶね)の一種[1]

上代から中世にかけて主に河川で用いられた吃水の浅い小船と、近世以降に普及した、川船の代表として各地の河川で貨客の輸送に従事した船とに大別される[2]
概要

高瀬舟は河川や浅海を航行するための木造船である。

「高瀬舟」という語の初出は、平安時代前期に編纂された歴史書日本三代実録』の巻第46の元慶8年9月16日条(西暦換算:ユリウス暦884年10月8日先発グレゴリオ暦で同年10月12日の条)[2]に見られる、以下の記述である[3][2][4]。《 原 文 》  ※字は旧字体(※『送』の旧字体は表示できない)。約物は現代の補足。
○十六日癸酉。令下二近江丹波兩國一。各造二高P舟三艘一。其二艘長三丈一尺。廣五尺。二艘長二丈一尺。廣五尺。二艘長三丈一尺。廣三尺。送中神泉苑上。
         ──『日本三代實?』卷第四十六 起二元慶八年六月一盡二元慶八年十二月一 [5][2]
書き下し文》 ※字は新字体、文は文語体振り仮名歴史的仮名遣
○.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}十六日(じふろくにち) 癸酉(みづのととり)。近江(あふみ)丹波(たんば) 両国(りやうこく)をして各(おのおの) 高瀬舟(たかせぶね) 三艘(さんさう) 造(つく)らしむ。其(そ)の二艘長(ちやう)三丈(さんぢやう)一尺(いつしやく)、広(こう)五尺、二艘長二丈一尺、広五尺、二艘長三丈一尺、広三尺、神泉苑(しんせんゑん)に送る。[3][6](p3)《口 語 訳》 ※文は口語体。振り仮名は現代仮名遣い。角括弧[ ]内は文意を整えるための補足。丸括弧( )内は補足解説。
[9月]16日癸酉(みずのととり)、[朝廷が]近江(おうみ)・丹波(たんば)両国(りょうこく)[の国人]に命じて高瀬舟を3艘(そう)ずつ造らせる。それら[6艘、すなわち、]長さ31・幅5尺の2艘、長さ2丈1尺・幅5尺の2艘、長さ2丈・幅3尺の2艘(※長さ約9.39m・幅約1.52mの2艘、長さ約6.36m・幅約1.52mの2艘、長さ約6.06m・幅約0.91mの2艘)を、神泉苑(しんせんえん)に送る。利根川の高瀬船/千葉県立関宿城博物館所蔵の、近現代の写真。

中世の高瀬舟は、船体が小さく、高背で、船底が深かった。近世になると船体は大きくなり、船底は平たく浅くなった。

近世以降に普及したほうの高瀬舟は、室町時代末期頃の備中国美作国(現在の岡山県岡山市周辺一帯に相当)[* 1]の主要3河川(吉井川高梁川旭川。近代以降にいう『岡山三大河川』)などで使用され始め、江戸時代になると日本各地に普及し、昭和時代初期まで使用された。帆走、もしくは、や人が曳く方法(cf. 曳舟道)で運行され、物資の輸送を主な目的としていた[7]。主な輸送物資は、岡山においては、年貢木材海産物醤油などがある[8]

角倉了以素庵親子が開削して京都伏見間を繋いだ運河高瀬川」は、それによって隆盛を始めた当地域における高瀬舟の運航にちなんで名付けられたものである。
構造


主要な4地域の高瀬船 利根川の高瀬船
描かれた高瀬船葛飾北斎『富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい) 常州(じょうしゅう) 牛堀(うしぼり)』/名所浮世絵揃物『富嶽三十六景』の第19景。この一枚は多色摺(たしょくずり)で、つまり錦絵であるが、初摺は藍摺であった。常陸国行方郡牛堀村(幕藩体制下の常州水戸藩知行牛堀村。現・茨城県潮来市牛堀)[gm 1]を描いている。当時の牛堀は富士見名所でもあった霞ヶ浦の南端の水郷で、鹿島や銚子(現在の鹿嶋市辺りや銚子市辺り)などへ向かう航路として往来が盛んであった[9]。なお、実際の霞ヶ浦は富士山が見える東端に近い地点であり、これほど大きく見えたわけではない。朝霧の中、茂る水の上に1艘の大きな高瀬船が浮かんでいる[5]帆柱ごと畳まれていて船出にはまだ刻がある。このような船の船乗りは陸の宿には滅多に泊まらず、船上で寝起きするものである。船首近くには造りのしっかりした切妻屋根を設けた部屋がある。男の一人は炊きの支度をしており、屋根の板を外し、船外へ身を乗り出して鍋の中の磨ぎ汁を捨てている[9]。その音に驚いて葦の茂みから2羽の白鷺が飛び立っている[9]

近世以降に普及した高瀬船は、広まってからというもの、日本の川船の代表する存在となり、大小様々なものが建造された。備中国美作国の主要3河川(吉井川高梁川旭川)でも、山城国高瀬川駿河国富士川下総国利根川[10]でも、河川舟運を担う最も重要な川船であった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:52 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef