高橋至時
[Wikipedia|▼Menu]
上野源空寺にある高橋至時墓。奥には伊能忠敬、手前には高橋景保の墓がある。再手前の石碑は幡随院長兵衛夫婦の墓碑案内板。

高橋 至時(たかはし よしとき、明和元年11月30日1764年12月22日) - 享和4年1月5日1804年2月15日)は、江戸時代後期の天文学者天文方に任命され、寛政暦への改暦作業において、間重富とともに中心的な役割を果たした。また、伊能忠敬の師としても知られる。子に天文学者で伊能忠敬の没後「大日本沿海輿地全図」を完成させた高橋景保、天保改暦を主導した渋川景佑がいる。
生涯
麻田剛立に師事

明和元年(1764年)、大坂定番同心の家に生まれた。字は子春、号は東岡・梅軒。通称作左衛門[1]安永7年(1778年)15歳の時、父である高橋徳次郎元亮の跡を継いで大坂定番同心となった[1][2]天明4年(1784年)、同心永田元左衛門清賢の娘である志勉(しめ)と結婚した。翌年に景保、2年後に景佑が生まれ、その後にさらに3人の子をもうけた。

幼いころから算学に興味をもっていた至時は、天明6年(1786年)ごろ、松岡能一に算学を学んだ[注釈 1][3]。そして暦学を学ぶため、天明7年(1787年麻田剛立(あさだごうりゅう)に師事した。

当時の日本の暦は宝暦暦を用いていたが、この暦は精度が悪く、宝暦13年(1763年)に起きた日食の予報を外してしまっていた[4]。一方でこの日食は在野の複数の天文家によって事前に予測されていて、その中の一人が麻田剛立であった。剛立はその後、中国や西洋の天文学を読み解いたうえで、さらに自らの理論も加味した独自の暦「時中暦(時中法)」を作成し、高い精度を誇っていたため、当時の人々の間で評判が高かった[5]。至時はこの剛立のもとで、同じころに入門した間重富とともに天文学・暦学を学んだ。その熱心さは、至時の家が火事で全焼した翌日にも、焼け跡で剛立や重富と暦学の議論を行うほどであった[6]

当時至時らが暦学を学ぶ際に参考にしていたのは、授時暦貞享暦などの日本・中国の暦法、および『暦算全書』、『天経或問』といった書物だった[6]。そしてその中でも重要視されたのが、『暦象考成上下編』であった。

『暦象考成上下編』は、何国宗・梅殻成らによって編纂された、西洋の天文学をまとめた書で、天体の運動についてはティコ・ブラーエによる円軌道を基軸としている。ところがその後、間重富は新たに『暦象考成後編』を入手した。本書は書名こそ同じ『暦象考成』であるが、著者も内容も異なるため、実質的には「上下編」とは別の書である[7]。『暦象考成後編』では太陽と月の運動を、円軌道ではなく、ヨハネス・ケプラーの唱えた楕円軌道で説明していた。この理論は当時の日本人にとっては革新的であり、かつ難解でもあったが、至時は剛立・重富と共に取り組んだ研究の結果、この理論を習得することができた[7]。こうして至時らの天文学の知識は当時の日本では他を抜きんでたものになってゆき、その評判は広く知られるようになっていった。
寛政の改暦

寛政7年(1795年)、至時は重富とともに、幕府から、改暦を行うための出府を命じられた[注釈 2]。至時は同年4月に江戸へ赴任し、4月28日に測量御用手伝、11月14日幕府天文方となった。一方で、10月には妻の志勉が29歳で死去した[8]。志勉は下級武士で薄給だった時代の至時を支え、家計をやりくりしながら至時の観測道具代を捻出しており、その良妻ぶりは後の世にも知られるようになる[9]。至時はこの後再婚することはなかった[10]

寛政8年(1796年)に至時は正式に改暦の命を受けた。そして9月に江戸を出て10月からは京都にて観測及び改暦作業に当たった[11]。これは、当時の改暦は京都の土御門家が形式的な責任者となっているため、改暦作業には土御門家の協力と承認が必要だったためである[11][12]。改暦に当たっての資料としては『暦象考成後編』を活用したが、同書には太陽系の5惑星(水星・金星・火星・木星・土星)の運動についての記述がなかったため、それらについては『暦象考成上下編』を参考にした。また加えて、麻田剛立によって理論づけられた消長法(太陽などの運動が年月を経るごとに少しずつ変化してゆくという説)も採用した[13]

寛政9年(1797年)10月、「暦法新書」8巻が提出され、至時らは改暦作業を終えた。この新暦は寛政暦と名付けられ、寛政10年(1798年)より施行された[11]。寛政暦は実質的に至時と重富の2人が中心となって作った暦であるが、2人は天文方となってから日が浅かったため、他の天文方、あるいは土御門家や陰陽頭らとの見解と折り合いをつけなければならず、至時らの理論が十分に生かされなかった部分もあった[14][15]
至時と忠敬

改暦のために江戸に向かった数か月後、至時の元に伊能忠敬が弟子入りを求めて訪れた。至時は19歳年上の忠敬に暦学や天文学を教えた。至時は毎日天体観測に熱を入れる忠敬を「推歩先生」と呼んだ[16]

忠敬は緯度1に相当する子午線弧長を求めることに興味をもち、それは至時の関心事でもあった(詳細は後述)。忠敬は深川の自宅から浅草の天文台までの距離を歩いて測量しその値をもとに大まかな値を求めたが、至時は、そのような短い距離で求めても意味がないと応じた。そして、正確な値を求めるならば、江戸から蝦夷ぐらいまでの距離が必要だと述べた[17][18]

この事がきっかけとなり、忠敬の蝦夷測量が行われ、さらにその後の日本全国の測量へとつながった。至時は蝦夷地測量に当たって幕府に許可を得たり、測量中に問題が起こった時には忠敬に助言を与えたりするなど、測量事業を支援した[19][20]
改暦後

改暦のために在京していた時から、至時の健康状態は勝れず、たびたび激しい咳をしていた[21]。改暦後も、咳は持病であると自ら称していて、体調の悪い日は外出できず、時には10日間臥せっていたこともあった[21]。現在では、このころから至時は結核を患っていたと推定されている[22]

このような状態であったが、改暦を成し遂げた至時の評判はますます高まり、幕府からの信頼も厚くなった。そのため至時は、改暦をつかさどる土御門家とのやりとりや、その他の雑務に追われるようになった[23]。さらに、前述のように、寛政暦は至時にとって満足のゆくものではなかったため、暦学の研究も続けた[24]

享和2年(1802年)に起こった日食では、寛政暦と15分のずれが生じた。このことを至時は残念がり、寛政暦の改良に向けて天体観測にも力を注いだ[25]。病気がちのなか、時には徹夜して研究を続ける至時に対し、間重富は、あなたの身には暦学の興廃がかかっているのだから、病気の時は休養に専念するようにとの手紙を送っている[26]。翌享和3年(1803年)には体調は回復し、全快ともいえる状態になった[26]
晩年

至時は、前野良沢司馬江漢らと交流し、研究のために西洋の天文書を入手しようとしていたが、専門的な書物の入手には至らないでいた[27]。しかし享和3年(1803年)、若年寄の堀田正敦から、ジェローム・ラランドが著した天文書ラランデ暦書を渡され、調査を命じられることになった。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:60 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef