高橋源一郎
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この項目では、小説家について記述しています。高校野球指導者の同名の人物については「高橋源一郎 (野球)」をご覧ください。

高橋 源一郎
(たかはし げんいちろう)
誕生 (1951-01-01) 1951年1月1日(73歳)
日本広島県尾道市
職業小説家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴灘高等学校卒業
活動期間1982年 -
ジャンル小説翻訳文芸評論
文学活動ポストモダン文学
代表作『さようなら、ギャングたち』(1981年)
ジョン・レノン対火星人』(1985年)
優雅で感傷的な日本野球』(1988年)
日本文学盛衰史』(2001年)
『さよならクリストファー・ロビン』(2012年)
『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』(2018年)
主な受賞歴群像新人長篇小説賞優秀作(1981年)
三島由紀夫賞(1988年)
伊藤整文学賞(2002年)
谷崎潤一郎賞(2012年)
NHK放送文化賞(2019年)
デビュー作『さようなら、ギャングたち』(1981年)
子供橋本麻里(子)
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高橋 源一郎(たかはし げんいちろう、1951年1月1日 - )は、日本小説家文芸評論家明治学院大学名誉教授

散文詩的な文体で言語を異化し、教養的なハイカルチャーからマンガアニメテレビといった大衆文化までを幅広く引用した、パロディパスティーシュを駆使する前衛的な作風。日本のポストモダン文学を代表する作家の一人である。
経歴
生い立ち、大学紛争

広島県尾道市の母の実家に生まれる。母親はオートバイ&自転車販売会社の一人娘で、東宝の「第一期ニューフェイス」に合格したが、祖父の反対で諦め、結婚した[1][2]。1歳まで大阪鉄工所を営む父の実家にておもに祖母(佐々木哲蔵の姉)の手で育てられた[3]帝塚山の父の実家は、家族全員にひとりずつ女中がつき、女中たちをまとめる女中頭までいたほど豊かな家だった[4]尾道市立土堂小学校2年の頃、父の経営していた鉄工所が倒産し、ヤクザの取り立てから逃れて東京に夜逃げし、東池袋に間借りして、母が銀座に勤めに出て家計を支えた[4]

1959年、東京の大泉学園に移り住む。練馬区立大泉東小学校に入学するも、尾道に戻り土堂小学校に転校し直す[5]。1960年、東京の千歳船橋に移り住む。世田谷区立船橋小学校に転校。

1963年4月、麻布中学校に入学。

父親が失踪したため母親の実家のある尾道市へ引っ越すも、父方の祖母の意向ですぐに関西に引っ越し[6]、1964年1月、灘中学校に転入。このころ鮎川信夫谷川雁鈴木志郎康等の現代詩を読み、感銘を受ける。同級生の竹信悦夫から多大な影響を受けた[注釈 1]

1966年4月、灘高校に入学。高校時代より無党派のデモに参加[注釈 2]

1969年、東京大学を受験する予定だったが、東大紛争による入試の中止により京都大学を受験して失敗、二期校である横浜国立大学経済学部に入学した[6]。しかし同大学の授業を面白いとは感じなかった[6]。また、大学紛争中のストライキによりほとんど授業が行われなかった。そして、活動家として街頭デモなどに参加する日々を送る[9]。同年11月、学生運動に加わって凶器準備集合罪で逮捕される。

1970年2月、起訴され8月まで東京拘置所で過ごす[5][10][11]。その体験が原因で一種の失語症となり、書くことや読むことが思うようにいかなくなる[12]

1972年夏、土木作業のアルバイトを始め、鉄工所や化学工場、土建会社などの肉体労働に10年ほど従事する日々を送る。

1977年3月、大学を除籍になる[注釈 3]。この頃、ハイセイコー弥生賞を偶然テレビで見たことがきっかけとなり、競馬に熱中するようになった[14]
小説家に

1979年1月8日放送の「松山千春オールナイトニッポン」(ゲスト:中島みゆきさだまさし)に触発され、文章を書くことを再開する[注釈 4]

1980年、『すばらしい日本の戦争』を第24回群像新人文学賞に応募し翌1981年、最終候補作3編のうちの1作に選ばれるが落選。『群像』6月号に掲載された選評では、瀬戸内寂聴を除く全選考委員から酷評される。このときに担当した編集者に勧められて長編小説の執筆を開始し、『さようなら、ギャングたち』を第4回群像新人長篇小説賞へ応募。この年、本賞受賞作はなく、優秀作に選ばれて1981年12月号に掲載され、『海燕』1982年3月号において吉本隆明から高評価を受け、1982年10月に講談社より刊行された。

1984年8月、『虹の彼方に(オーヴァー・ザ・レインボウ)』を中央公論社より刊行。

1985年1月、『すばらしい日本の戦争』に手を加えた『ジョン・レノン対火星人』を角川書店より刊行し、『さようなら、ギャングたち』と合わせて初期三部作とする。

1986年、山川直人監督の映画『ビリィ★ザ★キッドの新しい夜明け』の原案を担当。

1987年、ジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』を翻訳、ベストセラーとなった。

1988年、『優雅で感傷的な日本野球』により第1回三島由紀夫賞を受賞[注釈 5]

1990年の『惑星P-13の秘密』以降は1997年の『ゴーストバスターズ』まで小説の発表がなく、エッセイ、時評などを中心に執筆した。


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