高橋巖_(美学者)
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高橋 巖(たかはし いわお、1928年 - 2024年3月30日)は、日本美学者日本人智学協会代表。元慶應義塾大学文学部教授。

日本におけるルドルフ・シュタイナー研究の第一人者[1]。1970年代からシュタイナーの人智学(Anthroposophie)を紹介するために著作・翻訳・講演活動を始めるようになり[2]1985年日本人智学協会を創立する。同協会代表(2010年現在)。東京都出身。
来歴

東京
代々木に生まれる[3]

中学生時代に画家の荻野暎彦に師事。「ヨーロッパへの関心を非常に掻き立てられた」ことに加えて、アルノルト・ベックリンを紹介されて魅了される[4]。また従兄が特攻隊員として出征する時に残していったヘルマン・ヘッセの『デミアン』に感動する。またノヴァーリスが紹介されている茅野蕭々の『独逸浪漫主義』を何度も読む中でヘッセとノヴァーリスのつながりを見つけ、両者に共通する思想の流れがあるに違いないと確信し、それを見つけたいと思うようになる[1]

1951年(23歳)慶應義塾大学文学部史学科卒業[3]

1956年(28歳)同大学博士課程満期退学[3]

1957-60年在西独(留学)。

1957年(29歳)秋に渡独[5]。また同じく秋にエジプト[6]並びにギリシア[7]を歴訪。年末ミュンヘンにてロマン派美学を学ぶ[2]過程でルドルフ・シュタイナーの弟子に会う[8]

1958年(30歳)6月前年秋の渡独直前に軽井沢の片山敏彦を訪ねた折にベルタ・シュタイヒャーを訪ねるように勧められたため、スイスドイツ国境の町レンググリースに赴く。美学者として最も本質的な影響を受けたのはハインリッヒ・フォン・シュタイン(de:Heinrich von Stein)であり、それは片山とシュタイヒャー抜きには語れないと述べている[9]

1960年 慶大講師。

1964-66年在西独(留学)[3]

1965年(37歳)東ベルリンで開催された、戦後最初のドイツのロマン主義絵画展に赴く[10]

1968年(40歳)7月バーゼルの本屋で偶々知り合ったリッポルトという弁護士と共にマティアス・グリューネヴァルトの『イーゼンハイムの祭壇画』を見にコルマールへ赴く[11]

1973年(45歳)慶應義塾大学文学部教授退職[3]。ドイツから帰国後は慶應義塾大学文学部教授だったが、当時の大学で異端視されかねないシュタイナーの思想を紹介することは難しいと感じ、身近でシュタイナーの勉強会を始めるために大学を退職。

1975年(47歳)著作『神秘学序説』イザラ書房

1981年(53歳)6月19日 朝日新聞 人智学の時代[12] 雑誌『アントロポス』創刊。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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