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プロフィール
出身地 日本 岩手県花巻市
生年月日1918年9月9日
没年月日 (2002-04-11) 2002年4月11日(83歳没)
血液型A型
最終学歴高千穂高等商業学校
(現:高千穂大学)
所属事務所圭三プロダクション
職歴NHKアナウンサー(1942年12月31日 - 1962年1月7日)(札幌→東京アナウンス室。うち最後の1年は専属契約)
活動期間1942年 - 2002年
著名な家族高橋了(長男、圭三プロダクション会長)
出演番組・活動
出演経歴『のど自慢素人演芸会』
『ジェスチャー』
『私の秘密』
『NHK紅白歌合戦』
『新春かくし芸大会』
『輝く!日本レコード大賞』など
アナウンサー: テンプレート - カテゴリ
日本の政治家高橋 圭三たかはし けいぞう
生年月日1918年9月9日
出生地岩手県花巻市
没年月日 (2002-04-11) 2002年4月11日(83歳没)
死没地東京都世田谷区
出身校高千穂高等商業学校
前職フリーアナウンサー
所属政党(無所属→)
自由民主党
称号正五位
勲三等旭日中綬章
紺綬褒章
参議院議員
選挙区全国区
当選回数1回
在任期間1977年7月4日 - 1983年7月3日
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高橋 圭三(たかはし けいぞう、1918年〈大正7年〉9月9日 - 2002年〈平成14年〉4月11日)は、日本のアナウンサー、政治家、参議院議員(1期)。NHKを経てフリーアナウンサーへ転身した人物の一人である。 呉服店の三男として生まれる[1][2]。作家の宮沢賢治とは遠縁にあたる[3]。幼い頃は病弱な子供であったという。花城尋常小学校(1931年3月)、組合立花巻中学校(1938年3月)、高千穂高等商業学校を卒業後[1][2][4]、富士電機へ就職。 1942年10月、アナウンサー募集の新聞広告に目が止まったのがきっかけでNHKに入局[5]。入社試験面接官・養成所校長は和田信賢(後に『話の泉』の和田の後任を引き受けた)。1944年5月27日、結婚。1948年1月19日、長女・光が誕生。 1950年1月から1954年9月まで慶應義塾大学病院で療養。地元のラジオ岩手の初期のアナウンサー養成も担当。1953年『NHK紅白歌合戦』の白組司会を9年連続で担当(1961年まで)、これはNHKの後輩アナウンサーの山川静夫に並び連続白組司会の最長記録となっている。1960年2月紺綬褒章を受章。1961年NHKを退職。その後1年間は専属契約(嘱託職と同じ)。 1962年NHKとの契約を終え、フリーアナウンサーとして経て民放に転じたNHKアナウンサーとなる[2][注釈 1]。その際、「管理職になってハンコなんか押せない。ハンコは誰でも押せるが、職人アナの代わりはいない。」「司会業の確立が夢でした。日本では司会は場つなぎだが、アメリカでは大切な職業」の思いから、テレビ界に「フリーアナウンサー」の概念を初導入した[1][2]。圭三プロダクションを立ち上げ、社長業を務めながら多数の民放番組を担当する[2]。1969年日本テレビ『あっぱれ!親バカ』で娘の光と司会で共演。 1977年第11回参議院議員通常選挙の全国区に無所属で出馬し当選。当選後は自由民主党に所属し、1期務めた[4]。1978年数人の有志とともに社団法人「虹の会」を設立し理事長に就任[6]、老人ホームへの巡回・講演活動を行うなど福祉活動にも積極的に参加した[4]。1983年比例代表名簿導入後初の選挙となった第13回参議院議員通常選挙に2期目を目指して立候補したが落選。以降、年に数回の頻度のテレビ出演となる。 1988年秋の叙勲で勲三等旭日中綬章を受章[2][7]。1989年無料アナウンス塾「圭三塾」を開講し後進の指導を続けた[2]。
経歴