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高橋 史朗
たかはし しろう人物情報
生誕土橋史朗[1][2]
1950年
日本 兵庫県龍野市(現・たつの市)
国籍 日本
出身校早稲田大学大学院文学研究科教育学専攻修士課程修了
学問
研究分野教育学
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高橋 史朗(たかはし しろう、1950年 - )は、日本の政治活動家、教育学者。一般財団法人親学推進協会理事長、モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所教授[3]。
日本会議政策委員[4][5]、新しい歴史教科書をつくる会副会長、明星大学教授・同大学院教育学専攻主任、麗澤大学道徳科学教育センター客員教授などを歴任。専攻は占領下の日本教育史。その他にも「感性教育」、臨床教育学、ホリスティック教育学、「親学」などを研究している。 兵庫県龍野市(現・たつの市)出身。旧姓は土橋。早稲田大学在学中、生長の家学生会全国総連合(生学連)委員長を務めた[1][2]。1973年3月、早稲田大学第一文学部人文専修卒業[6]。生学連のOB組織である「日本青年協議会」に参加[7][8][2]。 1974年11月、日本青年協議会は、教科書を作成し、教育理論家や活動家の拠点校を増やすことなどを目的とする下部組織「日本教育研究所」を設立。高橋が事務局長に就いた[8]。生学連女子学生対策局長だった高橋こずえと結婚し、高橋姓となった[1][3]。 1978年3月、早稲田大学大学院文学研究科教育学専攻修士課程修了。高校講師となる。学校を休み、同年10月3日に日本武道館で行われた「元号法制化実現国民会議」の総決起国民大会に出席し、参加者2万人を代表して大会決議文を朗読した[9]。その後、スタンフォード大学フーヴァー戦争・革命・平和研究所研究員となった[10]。 1980年11月、明星大学人文学部専任講師。1984年4月、人文学部助教授。1990年4月、人文学部教授。1995年4月玉川大学大学院講師兼任。2016年4月、明星大学教育学部特別教授[6]。 臨時教育審議会(政府委嘱)専門委員、国際学校研究委員会(文部省委嘱)委員、神奈川県学校不適応(登校拒否)対策研究協議会専門部会長を経て、青少年健全育成調査研究委員会(自治省委嘱)座長などもつとめた[11]。 米国の戦後の日本占領政策について、米国が「日本が二度と立ち上がれないような政策」を行ったとしており、それがその後の日本人の「自虐意識」を育てることになったと主張している[12]。 1990年に「『子どもの権利条約』批准・署名運動には慎重な対応を」という記事を『改革者』(政策研究フォーラム)に寄稿した[13]。 高橋の論文は日本青年協議会機関誌『祖国と青年』に数多く残っており、1975年11月号の『無国籍歴史教育・その問題点』[14]では「日教組が明確な『階級史観』に立脚し、低劣な『善玉悪玉論』で徹底した『革命教育』をしているのは明らか」と主張。1977年には「日本教育研究所」事務局長として「若者の凄惨な爆弾闘争は、歴史の中における一体感を身につけなかった悲劇」「天皇―国家―自己の生命を貫いている根源的な価値に目覚めさせることが最も本質的な課題」と座談会で述べた[15]。 1996年12月2日、藤岡信勝、西尾幹二らが中心となって「新しい歴史教科書をつくる会」(略称:つくる会)の結成記者会見が開かれる。西尾は「この度、検定を通過した7社の中学教科書は、証拠不十分のまま従軍慰安婦の強制連行説をいっせいに採用した」との声明を発表。声明文に藤岡、西尾、高橋、小林よしのり、坂本多加雄、深田祐介、山本夏彦、阿川佐和子、林真理子の計9人が呼びかけ人として名を連ねた[16][17][18]。 2006年の教育基本法改正に奔走した[19]。 現在家庭の教育力が低下・崩壊の危機に瀕していると考え、まず親が子育ての方法を学ぶという「親学」の概念を提唱している。児童の発達障害は治療可能であると主張している[20][21]。
経歴
主張
米国の日本占領政策
子どもの権利批准条約
教育・男女共同参画
親学
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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