高橋二三
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共に元プロ野球選手の「高橋一三」あるいは「高橋二三男」とは別人です。

高橋 二三(たかはし にいさん、1926年2月3日 - 2015年5月5日)は、日本脚本家。本名:高橋 幸人(たかはし ゆきと)[1]群馬県佐波郡玉村町出身。
来歴・人物[ソースを編集]

1960年代の大映松竹映画で活躍し、84本の映画脚本を手がけた。特に1965年から6年続いた特撮怪獣映画の「ガメラシリーズ」では、科学考証を無視したキャラクタライズしたシナリオで、「怪獣ガメラ」を東宝の「ゴジラ」と双璧をなす人気怪獣へと伸し上げた。1970年代に入るとテレビ番組を数多く手がけた。

「ガメラシリーズ」の湯浅憲明監督は、「怪獣の登場する映画で科学考証など意味がないと、高橋さんと打ち合わせて脚本作りを行った。子供が楽しめるファンタジー、童話として、監督が驚くようなアイディアを生みだす高橋さんは天才だ」と語っている。

大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』(1967年)では公開後、東宝のゴジラシリーズで知られる本多猪四郎監督から「素晴らしい内容だった」と絶賛激励され、「ゴジラシリーズ」に対する負い目が吹き飛んだと語っている。また、高橋が1991年にビデオ企画に合わせて『ガメラ対不死鳥』というオリジナル脚本を奔放なイメージで書き上げ、複数の特撮関係者に送ったところ、本多は「作品は大事になさってください」と丁寧な感想文を添えて送り返してくれたという。このオリジナル脚本は後年、新作小説の形で出版されている。

ジャン・ギャバン主演ジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『我等の仲間』を好きな映画と公言し、特に『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』に強い影響があるという[2]

2015年5月5日、脳幹出血のため死去[3]。89歳没。
執筆作品[ソースを編集]
映画脚本[ソースを編集]

泣き笑い地獄極楽(1955年)

銀座の女(1955年)

おヤエのママさん女中(1959年)

おヤエの家つき女中(1959年)

おヤエの身替り女中(1959年)

若いやつ(1963年)

大怪獣ガメラ(1965年)

大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン(1966年)

大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス(1967年)

ガメラ対宇宙怪獣バイラス(1968年)

あるセックス・ドクターの記録(1968年)

ガメラ対大悪獣ギロン(1969年)

ガメラ対大魔獣ジャイガー(1970年)

ボクは五才(1970年)

樹氷悲歌(1971年)

ガメラ対深海怪獣ジグラ(1971年)

悪名尼(1971年)

宇宙怪獣ガメラ(1980年)

テレビ脚本[ソースを編集]

松本清張シリーズ・黒い断層「偶数」(1961年)

しゃあけえ大ちゃん(1964年)

わんぱく砦(1966-1967年)

無敵!わんぱく(1968年)

サンダーマスク(1972年)

走れ!ケー100(1973年)

電人ザボーガー(1974年)

座頭市物語(1974年)

みつばちマーヤの冒険(1975年)

痛快!河内山宗俊(1975年)

アラビアンナイト シンドバットの冒険(1975年)

ふしぎ犬トントン(1978年)

はいからさんが通る(1978年)[4]

若さま侍捕物帳(1978年)

伝七捕物帳(1979年)

走れ!熱血刑事(1980年)

忍者ハットリくん(1981年)

ふしぎの国のアリス(1983年)

へーい!ブンブー(1985年)

著書[ソースを編集]

『ガメラVS不死鳥』(1995年) ISBN 4094404112

参考文献[ソースを編集]

『ガメラを創った男―評伝 映画監督・湯浅憲明』(アスペクト刊) ISBN 4893663682

『ガメラクロニクル』(ソニーマガジンズ刊) ISBN 4789713547


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