高橋お伝
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高橋お伝(小林清親画)

高橋 お伝(たかはし おでん、本名:でん、嘉永元年(1848年) - 明治12年(1879年1月31日)は、日本の殺人犯、女性死刑囚仮名垣魯文の「高橋阿伝夜刃譚」のモデルとなり、「明治の毒婦」と呼ばれた。
略歴
生い立ち

嘉永元年(1848年)[注釈 1]上野国利根郡下牧村(現:群馬県利根郡みなかみ町)に高橋勘左衛門、きのの娘として生まれるが、同村の高橋九右衛門、はつの養女となった[3]。お伝の生まれについては、きのは嫁入り時点で妊娠しており、実父は沼田藩家老広瀬半右衛門とする話がある[4]

慶応2年12月(1867年1月)[注釈 2]、同郷の高橋浪之助と結婚し横浜へと移る[5]。明治5年(1872年) 9月17日[注釈 3]、浪之助が病死[注釈 4]。明治9年(1876年)9月12日付「東京日日新聞」によればその後、小沢伊兵衛という者と神田仲町の秋元幸吉方に同居した[7]
強盗殺人

以下の殺人事件の経緯は、お伝逮捕から間もない明治9年9月12日、13日付「東京日日新聞」による[8]

明治9年8月、お伝は小川市太郎と新富町で同棲していたが、田中甚三郎という者から10円を借金しており、催促を受け工面のため檜物町の古着屋後藤吉蔵に相談した。吉蔵は用立てると言いながら度々先延ばしにした。26日午後5時吉蔵はお伝に「今よりお前と何方へ行き添寝せん」など言いだし、お伝は「今夜こそ吉蔵は金を持っているだろう、ともかく彼の言葉に従って金を借りよう、応じなければ殺してでも金を手に入れよう」と思い剃刀を滞在先から持ち出し、吉蔵と人力車浅草蔵前片町の旅人宿大谷三四郎方へ向かった。吉蔵とお伝は「中仙道熊谷宿の内山仙之助」と「女房のおまつ」と名乗り、2階で酌を交わし臥所に入ったが吉蔵は寝入ってしまった。お伝は明るくなってから金子の在処を尋ねたが吉蔵は「只今は持合せも無し」と答えたためこの上は殺して金を奪おうと思い、12時になり、寝ている吉蔵の上に乗り喉へ剃刀を突き立て、声を挙げるのを布団で塞ぎ殺害した。死骸は布団で覆い、以下の書置を書いた。

書置

此ものは五年いらいあねをころされ、其うえわたくしまでひどうのふるまいうけ候て、せん方なく候まゝ今日迄むねんの月日をくらし、只今あねのかたきをうち候也。いまひとたびあねのはかへまいり、其うへすみやかに名のり出候也。けしてにげかくれひきふはこれなく候。此むね御たむろへ御とどけ下され候。

かわごひうまれにて     まつ

吉蔵の荷物から11円と書類などを取り出し、午後5時頃「近所まで用足しに行くから其まゝにして置いて下さい」と言って宿を後にし、新富町へ帰った。翌28日に田中甚三郎に10円を、近所のお菊という女に1円を返済したが、翌29日にお伝は逮捕された。

同記事中で既に「稀なる毒婦」と呼ばれている。
処刑

逮捕後は「姉の敵」[注釈 5]と称しなかなか白状せず、「吉蔵は血迷って自分で自らの喉を切った」と主張したが、診断書と関係者の証言により、犯行が裏付けられたことで遂に自供。明治11年(1878年)10月23日、取り調べが終わり、市太郎との面会が許された[10]。お伝の取調べの経過を報道する明治10年8月9日付「東京曙新聞」、明治10年10月24日付「朝野新聞」、同日付「郵便報知新聞」の記事から、お伝が「鬼神(の)お松」との異名をとったことが分かる[11]

明治12年(1879年)1月31日、東京裁判所死刑申渡し。翌2月1日付「朝野新聞」に以下の申渡書が掲載されている[12]

一月三十一日東京裁判所申渡

 群馬県上野国利根郡下牧村四十四番地

         平民九右衛門養女

               高 橋 で ん

                 三十年七ヶ月

其方儀、後藤吉蔵ノ死ハ自死ニシテ己レノ所為ニアラザル旨申立ルト雖ドモ、第一吉蔵ヲ殺害セシ云々ノ書置及ビ当初警視分署並ニ明治十年八月十日糺問、判事ニ於テノ供状、第二医員ノ診断書、第三今宮秀太郎ノ申供、第四旅店大谷三四郎等ノ申供、第五宍倉佐七郎ノ申述、此衆証ニ依レバ自殺ニ非ザル事明白ナリトス。而シテ広瀬某ノ落胤或ハ異母ノ姉復讐ナリト云ヒ、又ハ姉在世ノ景況及ビ須藤藤次郎等ヲ証拠人ト云フモ、果シテ姉ノ生所等モ認ム可キ徴憑ナシ。是レ畢竟名ヲ復讐ニ托シ自ラ賊ノ名ヲ匿サン為メニ出ルノ遁辞ナルモノトス。此ニ因テ之ヲ観レバ、徒ニ艶情ヲ以テ吉蔵ヲ欺キ財ヲ図ルモ遂グル能ハザルヨリ、予メ殺意ヲ起シ、剃刀ヲ以テ殺害シ財ヲ得ル者ト認定ス。因テ右科人令律謀殺条第五項ニ照シ斬罪申付ル。

即日市ヶ谷監獄で死刑執行[13]八代目山田浅右衛門の弟吉亮により、斬首刑に処された[14][15]。遺体は警視庁第五病院で軍医の小山内建(小山内薫の父親)により解剖され、その一部(性器)の標本が衛生試験場に保存された。その後、東京大学医学部、戦時中には東京陸軍病院に渡ったとされるも、詳細は不明である[16]。雑誌「ドルメン」昭和7年7月号で清野謙次はお伝の局部は膀胱及び腎臓の付着したまま酒精ホルマリンに漬けられていると述べ、測定値を発表している[17]

最終的に小塚原回向院に埋葬された。墓は片岡直次郎鼠小僧次郎吉腕の喜三郎の墓に隣接して置かれている。

下牧の高橋家墓地には羽織あるいは遺髪を埋めたと伝わる墓があり、俗名は刻まれていないが「聞外妙伝大姉」と没年月日が刻まれている[3]
脚色された生涯

お伝の処刑直後、明治12年2月1日から7日にかけて「東京曙新聞」にお伝の伝記が「毒婦高橋お伝」として連載された[18]。明らかな誤りや創作を含むものの、早い段階からお伝の生涯に大衆の関心が集まり、脚色が加えられていたことが分かる。

お伝は上野国利根郡下牧村高橋九右衛門の養女で、明治2年12月に同村の高橋波之助を婿養子としたが、明治4年2月に波之助は癩病を発症し、同年12月良医を求め夫婦で故郷を離れ江戸馬喰町に居住した。(2月1日付)

お伝の実母お春は沼田藩の重臣広瀬半左衛門の家に雇われていた時期に半左衛門の子を妊娠したが、お春は高橋九右衛門の弟勘左衛門の妻となり、お伝を出産した。半左衛門はお春を雇う前にも忍藩士青木新左衛門の娘お賤にもお金という女子を産ませていた。虎の門琴平社でお伝とお金は偶然にも出会い、横浜野毛町の商人内山仙之助の囲妻であったお金は波之助がヘボンの治療を受けることを勧め、明治4年4月からお伝夫婦は横浜へ引っ越した。仙之助は波之助さえいなければお伝が自分になびくだろうと考えた。(2月3日付)

明治5年8月、旧会津藩士族加藤武雄という者が仙之助に頼まれたとして癩病に効く薬として壜に入った水薬を持参したので、波之助に毎日飲ませたが、日ごとに苦痛は増し、胸の辺り一面が紫色に腫れて8月18日に死んでしまい、太田清水町の大福寺に埋葬した。その後お伝は富岡の生糸商人小沢伊兵衛の妾のようになり、東京神田仲町の秋元幸吉方へ住み、名前をお松と改めた。明治6年、風呂に行こうとしたところで加藤武雄に出会い、薬の出所を問いただそうとしたが逃げ出したため、昌平橋の土手際で追いついたものの、加藤は短刀でお伝を切りつけ二の腕に傷を負わせ、逃げ去った。(2月4日付)

横浜でお金が何者かに殺害されたとの知らせを受けたお伝は横浜に向かい、仙之助への疑惑を抱く。お伝は明治7年7月から同9年8月までは下牧の養家に戻っていた。再度上京後、石井甚三郎という者の紹介で日本橋檜物町の古着屋後藤吉蔵を借財のため訪れると、後藤吉蔵は内山仙之助が名前を改めたものであった。お伝が吉蔵を問いただすと、お金とは別れてその後は知らない、加藤という者を頼んだ覚えもない、と白を切った。机の上には父半左衛門の遺品として姉が大事に持っていた脇差小柄があったが、吉蔵はそれについて借金の抵当として受け取ったもので、脇差本体は道具屋へ売ったと答え、日が暮れたのでまた翌日呉服町の福田屋へ来るように言った。(2月5日付)

翌日吉蔵は脇差を必ず取り戻すと言って明日まで待つように言った。翌日も使いが来てお伝が宿所としていた新富町一丁目の行川お安方へ明日行くと伝えられた。8月26日夕方、浅草の道具屋へ買い戻しに行くとして吉蔵とお伝は同車したが、お伝は御蔵町片町の丸竹という宿で待つように言われた。帰ってきた吉蔵は道具屋の主人が戻るまで待てと言い、お伝が2階に上がると枕が2つ並べてあり、吉蔵は蚊帳にお伝を引き入れて眠り込んでしまった。(2月6日付)


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