logo高槻城
(大阪府)
高槻城跡の石碑
高槻城(たかつきじょう)は、摂津国島上郡[1]高槻村(大阪府高槻市城内町)にあった日本の城。明治7年(1874年)まで存在した。別名入江城(いりえじょう)。大阪府指定史跡[2]。 室町時代は入江氏の居城であったが織田信長に滅ぼされ、その後和田惟政、次いで高山右近が城主となった。天正元年(1573年)からは本格的な城塞が築かれた。豊臣氏滅亡後は内藤信正が城主となり、以降高槻藩の藩庁として用いられた。内藤氏の後は土岐氏、松平氏、岡部氏、永井氏とたびたび城主が入れ替わった。 明治7年(1874年)に廃城となり、東海道本線が敷設される際、石垣や木材などがその資材にあてられた。現在、城域の一部が城跡公園として整備され、復元石垣、高山右近像が建てられている。 10世紀の末、990年に近藤忠範
概要
沿革
永禄12年(1569年)1月、本圀寺の変で15代将軍足利義昭の住む屋敷を襲撃する時に、三好三人衆と行動を共にしていた入江春継は敗退し、自害して滅んでしまったようである。この時逆に活躍したのが芥川山城主であった和田惟政で、信長より高槻城も与えられ高槻城を本城とした。この時から高槻城は近代城郭として大きく様変わりしていく。
キリスト教の最大の理解者であったのは、和田惟政の死後1573年に惟政の子惟長と格闘した結果惟長が城を出たことにより城主となる高山父子[3]であるが、和田惟政もよき理解者で宣教師を迎え入れたり、城内に教会を建設しようとしたが白井河原の戦いで戦死し頓挫した。その後高山友照・右近父子が城主となって天正4年(1576年)に念願であった教会を建設、天正11年(1583年)には修学寮も建設し、領内には20ヶ所の教会、当時の高槻領人口の60%以上、1万8千人もの人々がキリスト教徒となり、宗教活動を活発にしていたようである。
天正10年(1582年)6月に本能寺の変で信長が討たれると、豊臣秀吉は大坂城の築城に着手し、右近は天正13年(1585年)に船上城へ転封、高槻城は秀吉の直轄領となり城主となったが、同年末には亀山城へ移っていた。高槻城は豊臣方の代官数名や新庄直頼が城主となったが関ヶ原の戦い後、今度は徳川氏の直轄地となる。徳川方の代官や青山忠成が城主となり、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣、翌年の大坂夏の陣で高槻城は補給基地となって徳川方の勝利に貢献した。
元和元年(1615年)6月に内藤信正が城主に、元和3年(1617年)に土岐定義が城主となると、高槻城は完全な近代城郭として改修した。ついで松平家信、岡部宣勝、松平康信と城主が代わり、慶安2年(1649年)に永井直清が城主となる。
永井直清は侍屋敷の拡張、城下町の整備、領内では水田開発、各所に碑を建てて文化行政にも力を注いだ。その後永井氏は13代にわたって高槻城主となり幕末に至る。本丸にあった三重の天守は焼失したとの記録がないため、幕末まで存在した可能性がある。
明治4年(1871年)7月、廃藩置県により廃城。明治7年(1874年)には破却が始まり、向日町駅 - 大阪駅間の鉄道敷設用材として石垣などが利用された。
明治42年(1909年)から昭和20年(1945年)までは、大日本帝国陸軍工兵第4連隊が駐屯した。昭和22年(1947年)に高槻市立第一中学校、昭和26年(1951年)に大阪府立島上高等学校(現・大阪府立槻の木高等学校)が設置された。本丸跡にあたる槻の木高校内には高槻城跡の石碑が建てられている。 高槻城は主に4度の大規模な改修が実施されたと思われる。 高槻城改修の歴史回数年代改修者主な特徴 最終的な高槻城の規模は、約南北に630m×東西に600mが推定される。2008年現在の本丸、二の丸曲輪推定地
規模
第1次改修永禄年間
(1558年 - 1570年)和田氏一重の堀を巡らしたものではないかと推定される
第2次改修天正年間
(1573年 - 1592年)高山氏二重の堀を巡らしたものではないかと推定される
第3次改修元和年間
(1615年 - 1624年)土岐氏近代城郭が完成、三重の堀を巡らし、本丸、二の丸、三の丸、出丸が確認できる
第4次改修寛永年間
(1624年 - 1644年)岡部氏更に西側に堀を巡らし、西国街道に近い北側に城下町を整備したと思われる
曲輪群
内曲輪
本丸
天守(三重天守)、門、櫓
二の丸
御殿、門、櫓
厩曲輪
弁財天曲輪
外曲輪
三の丸
櫓、門
帯曲輪
出丸
高槻城の復元模型/高槻市立しろあと歴史館所蔵国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス