高校受験
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「高校入試」はこの項目へ転送されています。2012年放映のテレビドラマについては「高校入試 (テレビドラマ)」を、湊かなえの小説については「高校入試 (テレビドラマ)#小説」をご覧ください。

高校受験(こうこうじゅけん)は、高等学校入学試験を受験することである。その試験を高校入試(こうこうにゅうし)という。

戦後の日本においては、「高校」とは、後期中等教育の学校を指す。世界的には、先進国では、後期中等教育の学校の入試はほとんどない[1]。日本の明治から戦前までにおいては、中等教育は旧制中学校などの旧制中等学校が担っており、旧制高等学校高等教育の前期課程の学校、現在でいう大学の教養課程に当たる。

本項目では、特に断り書きがない限り、戦後の日本における「高校受験」を取り上げる。高等学校の入学試験以外にも、高等学校・特別支援学校高等部・専修学校高等課程(いわゆる高等専修学校)などの後期中等教育を実施する教育機関、および、高等専門学校(高専)の入学試験と入学についても扱う。

本項目で述べる「学校」とは、一条校に加え、専修学校高等課程(高等専修学校)などの後期中等教育を実施する教育機関を含めるものとする。

なお、公立高校では入学試験は入学者選抜のための検査であるので、「受験」ではなく「受検」と表記することがある。
概要

日本において、戦後学制改革により、旧制中学校高等女学校の多くは新制「高等学校」に移行した。(旧制武蔵高等学校だけは私立武蔵高等学校中学校に移行した。)

第二次世界大戦終結直後は教室が極度に不足していたことから、入学試験で志望者を絞り込むことが最善と考えられるようになった。また、旧制中学の名門校を復活させたい動きも入試による選抜を後押しした[2]

学制改革では、高校三原則小学区制・総合制・男女共学)が唱えられ、高校とは、富国強兵を支えうる男子の育成から、高度経済成長を支える全ての男女が進学できる[2]学校への転換が図られた。小学区制と総合制はあまり実現しなかった。

京都府では、京都府知事を7期28年(1950年-1978年)務めた蜷川虎三が高校三原則を堅持した。蜷川の教育行政の「十五の春は泣かせない」は全国に広まり[3]、公立高校への全入運動を後押しした。

高校への進学率は1950年代半ばから急速に上昇する[4]

一方で、1963年(昭和38年)、文部省(当時)は「適格者主義」(「高等学校の教育課程を履修できる見込みのない者をも入学させることは適当ではない」)を通達する[5]

1967年東京都学校群制度が導入される。全国の都道府県において、総合選抜、学校群制度を実施した県では、旧制以来のナンバースクールが凋落し、近隣の高校の合格実績が上昇し、総じて公立高校の合格実績および入試難度は低下した。特に都市部では、東京都や京都府などで、国私立高校の難化および合格実績の上昇となる。ただし、愛知県では旭丘高校をはじめとする旧制ナンバースクールの合格実績や入試難度が大幅に低下することはなかった。(学校群制度#愛知県も参照)

高度経済成長に伴い、国民の所得平均は上昇し、高校全入ではなかった時代から、成績最上位層なら国私立高を目指す動きが、首都圏関西圏、九州などで加速する。

1965年ごろから、学力偏差値が広まる[6]1970年代前半には、全国津々浦々の地方のテスト業者や学習塾などにまで偏差値が広まるようになる[7]


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