高柳 光寿(たかやなぎ みつとし、1892年3月11日 - 1969年12月1日)は、日本の歴史学者。高柳 光壽とも。自身で「柳」と署名しているものもある。國學院大學教授。大正大学教授。静岡県出身。専門は日本中世史、特に戦国時代史。足利尊氏研究、戦国史研究の権威。 静岡県敷知郡浜松町(現在の浜松市)に神主高柳喜一郎の長男として生まれる。1914年、國學院大學国史科を優等の成績で卒業[1]。1916年に東京帝国大学史料編纂所に勤務、1926年には史料編纂官[2]となって、『大日本史料』安土桃山時代の編纂を担当。また、1921年から1944年まで國學院大學教授を、1947年から1969年まで大正大学教授を兼任[3]。1948年、日本歴史学会を創設し、初代会長に就任[3]。1952年、東京大学史料編纂所を定年退官し、1958年より國學院大學文学部教授。また鎌倉市史編纂主任となり、1961年には「中世鎌倉の研究」により國學院大學から文学博士の学位を授与される[4]。1968年に國學院大學を退任。 1969年、東京都中野区の実家で死去。死後、本人と遺族の意向により、大正大学に高柳光寿奨学基金が設置された[3]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
来歴
業績.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}
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その研究方法は実証的・科学的なもので、それまで旧参謀本部『日本戦史』によって通説化していた様々な戦国史について再検討を行った。史料を分別することで、虚実を露にし、多くの新説を打ち立てた。それらは当時は画期的なものであったが、現在、多くの人々に支持され、通説となっている。史料の採用については、同じ國學院大教授の桑田忠親よりもシビアであり、軍記物などは積極的に排除する傾向がみられる。ただ、その中でも合理的な推察を加え、ありうべき事柄についてはそれを棄てないでいる。このような研究により、戦国史の泰斗・権威と評され、現在においても多大な影響を残している。また本能寺の変については、明智光秀の野望説を打ちたて、現在、藤本正行、鈴木眞哉らによって支持・補強されている。その著書『明智光秀』(人物叢書・吉川弘文館、1958年)は、小和田哲男が高校生当時に読み、歴史学のあり方について多くを学んだと吐露している(『明智光秀』PHP新書)。また、石井進(中世史専攻、東大名誉教授)は「国家成立過程における神社の意義」(高柳光寿史学論文集上、吉川弘文館、1970年所収)を読んで諏訪大社や信仰に興味を持った(石井進著作集第5巻)など、後進に与えた影響は大きく広い。
高柳の主著である『戦国戦記』は、本能寺の変・山崎の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、賤ヶ岳の戦いに関するものが刊行されており、当時は新説を多く盛り込んだ画期的な力作であったが、史実を求めた実証的な内容が支持され、その多くが通説として扱われている。現在、一部反論されるものも散見されるが、これらの著書の影響力は甚大である。なお、同書は、小牧・長久手の戦い、島原の乱、関ヶ原の戦い(2巻)が執筆される予定であり、高柳自身も意欲に燃えていたが、その死歿により幻となってしまった。
著書
『愛宕下、日比谷、丸の内附近、浅草、馬道、千束町、吉原、菊屋橋附近、地勢考』東京地下鉄道、1922年
『中等日本史』修文館、1929年
『新制中等日本史教授資料』東京修文館、1931年
『日本人の大陸発展史』日本放送出版協会、1941年 ラヂオ新書
『日本武将評伝 第1巻 坂上田村麻呂 他14篇』大日本出版、1945年
『足利尊氏』春秋社、1955年
『明智光秀』吉川弘文館(人物叢書)、1958年
『戦国戦記 1 三方原の戦』春秋社、1958年『武田信玄の戦略 三方原の戦』1988年
『戦国戦記 2 賤ケ岳の戦』春秋社、1958年「賤ケ岳の戦 戦史ドキュメント」学研M文庫
『戦国戦記 3 本能寺の変・山崎の戦』春秋社、1958年「本能寺の変 戦史ドキュメント」学研M文庫
『戦国戦記 4 長篠の戦』春秋社、1960年
『伊豆箱根・鎌倉の魅力』丸茂慎一(カメラ)淡交新社、1962年
『青史端紅』朝日新聞社、1962年
『戦国の人々』春秋社、1962年
『戦国史談』人物往来社、1966年
『源義経』文藝春秋、1967年
『高柳光寿史学論文集』上・下 吉川弘文館、1970年
『戦国対談』春秋社、1977年 新書戦国戦記 10
『戦国随想』春秋社、1978年 新書戦国戦記 8
『戦国の風俗と美術』春秋社、1978年 新書戦国戦記 9
『新書戦国戦記』全10冊 春秋社、1977年-1978年
青史端紅
戦国の人々
戦国史談
本能寺の変・山崎の戦
三方原の戦(のち『武田信玄の戦略』と改題)
長篠の戦
賤ヶ岳の戦
戦国随想
戦国の風俗と美術
戦国対談
共編など
『女子中等日本史』修文館、1930年
『日本名筆全集 第5巻 高僧名蹟集』雄山閣、1931年
『大日本戦史』第1-8巻 三教書院、1937-1944年
宮本武蔵『五輪書』校訂 1942年、岩波文庫
『世紀別日本史』渡辺実共著 明治書院、1958年
『戦国人名辞典』松平年一共著 吉川弘文館、1962年
『角川日本史辞典』竹内理三共編 角川書店、1966年