たかまつ えいこ
高松 榮子
本名須田 シヅ (すだ しづ)
生年月日 (1893-07-03) 1893年7月3日
没年月日不詳年
出生地 日本 東京府東京市(現在の東京都)
職業女優
ジャンル新派、劇映画(時代劇・現代劇、サイレント映画・トーキー)
活動期間1924年 - 1956年
主な作品
『愛の乱舞
高松 榮子(たかまつ えいこ、1893年7月2日 - 没年不詳)は、日本の女優である[1][2][3][4][5][6][7][8]。新字体表記高松 栄子、本名は須田 シヅ(すだ しづ)[1][2][6]。サイレント映画の時代は『愛の乱舞』で新井淳、『東海道膝栗毛』で粂譲を相手に主演し、戦後も『カルメン故郷に帰る』等多くの話題作に出演した、戦前戦後を通じての松竹のバイプレイヤーである[2]。 1893年(明治26年)7月2日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる[2][6]。本名については、『日本映画俳優名鑑 昭和九年版』(映画世界社
目次
1 人物・来歴
2 フィルモグラフィ
2.1 松竹蒲田撮影所
2.2 松竹大船撮影所
2.3 フリーランス
3 脚注
4 参考文献
5 関連項目
6 外部リンク
人物・来歴
横浜市立尋常高等横浜小学校(のちの横浜小学校、1946年廃校)を卒業し[1]、当時横浜の元町にあった横浜高等女学校(のちに磯子に移転、現在の横浜学園高等学校)を二年修業して中途退学した[1][2][10]。
その後、関東大震災後の1924年(大正13年)、浅草公園六区の常盤座で、根岸興行部の新派劇に参加し、女優となる[2]。同年、松竹蒲田撮影所に入社し、同年6月21日に公開された梅村蓉子の主演作『妹』(監督大久保忠素)に出演、満31歳を目前にした年齢で映画界にデビューした[2]。1927年(昭和2年)、準幹部に昇格したときにはすでに満34歳になっていた[2]。1936年(昭和11年)1月15日、同撮影所の機能が神奈川県鎌倉郡大船町(現在の同県鎌倉市大船)の松竹大船撮影所(現存せず)に移転するにともない、高松も異動になる[2][3]。その後、第二次世界大戦の間も、終戦後も、変わらず同撮影所に勤めつづけた[2][3]。
満63歳を目前にした1956年(昭和31年)に松竹を退社、東京映画が製作した瑞穂春海監督の映画『森繁よ何処へ行く』に出演、同作は東宝が配給して同年6月14日に公開された[2]。『芸能人物事典 明治大正昭和』によれば、同作をもって引退したとしており、以降の消息は不明である[2]。同年10月31日に公開された出演作『壁あつき部屋』(監督小林正樹)は、松竹在籍中の1953年(昭和28年)10月にすでに製作されていた作品である[3]。没年不詳。 すべてクレジットは「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[8][11]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。 特筆以外すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、すべて配給は「松竹キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画である[3][4]。
フィルモグラフィ
松竹蒲田撮影所
『妹』 : 監督大久保忠素、1924年6月21日公開
『関の五本松』 : 監督牛原虚彦、1924年10月17日公開
『城ケ崎の雨
『愛の乱舞
『二人巡礼』 : 監督重宗務、1925年8月21日公開
『屋上の恋人』 : 監督吉野二郎、1925年11月13日公開
『東海道膝栗毛 第一篇』 : 監督吉野二郎、1926年1月30日公開 - 女あんまお米
『お坊ちゃん』 : 監督島津保次郎、応援監督蔦見丈夫・五所平之助、1926年5月1日公開 - 羽田家女中