高松宮宣仁親王
[Wikipedia|▼Menu]

高松宮宣仁親王
高松宮家
1940年12月5日撮影
続柄大正天皇第3皇男子[1]

宮号高松宮(たかまつのみや)
全名宣仁(のぶひと)
称号光宮(てるのみや)
身位親王
敬称殿下
お印若梅(わかうめ)
出生1905年1月3日
日本東京府東京市赤坂区青山東宮御所
(現:東京都港区赤坂
死去 (1987-02-03) 1987年2月3日(82歳没)
日本、東京都渋谷区広尾日本赤十字社医療センター
埋葬1987年2月10日
日本、東京都文京区大塚豊島岡墓地
配偶者親王妃喜久子(徳川喜久子)
父親大正天皇
母親貞明皇后
役職 海軍大佐
日本赤十字社総裁
日本蚕糸会総裁
日仏会館総裁
など
テンプレートを表示

高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年明治38年〉1月3日 - 1987年昭和62年〉2月3日)は、日本皇族海軍軍人有栖川宮の祭祀を継承。御称号は光宮(てるのみや)[2]身位親王お印若梅(わかうめ)。栄典大勲位功四級

大正天皇貞明皇后の第三皇子。皇長兄に昭和天皇、皇次兄に秩父宮雍仁親王、皇弟に三笠宮崇仁親王がいる。第125代天皇明仁は甥、第126代天皇徳仁秋篠宮文仁親王は大甥にあたる。妃は公爵徳川慶久の次女・喜久子
生涯
誕生1930年(昭和5年)7月14日パリのアレクサンドル3世通りでフランス軍観兵式を査閲(右から3番目)。モナコ公ルイ2世ドゥメルグ仏大統領らと。

1905年(明治38年)1月3日、当時の皇太子嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)の第3皇男子として青山東宮御所で誕生。幼称(御称号)を光宮(てるのみや)といった。

高松宮四親王家の一つ、有栖川宮の旧宮号であるが、宣仁親王が有栖川宮の祭祀を継承したのには故がある。1913年大正2年)7月10日、有栖川宮第10代・威仁親王が後嗣・栽仁王に先立たれたまま薨去した。皇室典範によって皇族の養子縁組が禁じられていたため、有栖川宮は断絶が確定した。

威仁親王が危篤となって以降7月6日、当時8歳だった宣仁親王に高松宮(有栖川宮家の旧称)の称号が授与され[3]、有栖川宮の祭祀を将来的に宣仁親王に受け継がせることとなった[注釈 1]7月17日の国葬では、宣仁親王が勅命によって喪主を務めることとなった[4]

1923年(大正12年)、有栖川宮最後の皇族となった威仁親王妃慰子の薨後1年祭をもって同宮が絶家すると、その祭祀、および邸宅などの財産は正式に高松宮に引き継がれた。

1920年(大正9年)4月、学習院中等科三年退学、海軍兵学校予科入学。無試験で入学できる皇族子弟は他の生徒より知的・体力的に劣らざるを得なかった。宣仁親王の予科入学に際してはレントゲン検査も含め健康管理に万全の準備が整えられていたが、凍傷になったため他の生徒とは異なる厚手の作業着が用意された。1921年(大正10年)8月24日、海軍兵学校本科に編入(52期)。1924年(大正13年)7月24日、海軍兵学校卒業、少尉候補生となったが9月に赤痢のために、候補生遠洋航海は断念。

1925年(大正14年)1月3日、成年を迎え、同日付で貴族院皇族議員に就任[5]1月13日に成年式が執り行われ[6]、8月には、長兄摂政宮皇太子裕仁親王の樺太行啓に同行した。同年12月1日、海軍少尉に任官。1927年(昭和2年)12月1日付で海軍中尉に昇任[7]

1930年(昭和5年)2月4日、自身が祭祀を継承している有栖川宮威仁親王徳川慶喜の孫にあたる徳川喜久子と結婚[8]。「公武合体」と話題を呼んだ。

同年、兄・昭和天皇の名代として妻・喜久子と14か月にわたって欧米を周遊訪問し、5月27日にはカリフォルニア州サンフランシスコに立ち寄って日系移民たちの前でスピーチを行った。なおこの時のスピーチは地元住民によってレコードに録音され、現存している[注釈 2]。@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}

長兄裕仁親王、次兄雍仁親王と(1906年頃)

次兄雍仁親王と(1922年頃)

海軍少尉任官(1925年以降)

徳川喜久子との婚儀(1930年2月)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:92 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef