高村正次
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たかむら まさつぐ
高村 正次
本名同
別名義高村 將嗣
生年月日
1891年
没年月日1967年9月
出生地 日本 長野県更級郡稲荷山町仲町(現在の同県千曲市稲荷山中町
職業映画プロデューサー実業家
ジャンル劇映画現代劇時代劇剣戟映画サイレント映画トーキー
活動期間1923年 - 1967年
配偶者牧野冨榮(入籍はせず)
著名な家族マキノ家
高橋楙(実弟)
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高村 正次(たかむら まさつぐ、1891年明治24年) - 1967年(昭和42年)9月)は、日本映画プロデューサー実業家である[1][2][3][4][5]1950年代の一時期、高村 將嗣(新字体表記高村 将嗣)と名乗った[1][2][3][4][5]。読みはいずれも「たかむら しょうじ」とも。ユナイテッド・アーティスツの日本支社支配人から東亜キネマ取締役、のちに撮影所長へと転身して辣腕を揮い、戦後は宝プロダクションを設立して剣戟映画を手がけ、加藤泰萩原章を映画監督として本格的にデビューさせた[1]
目次

1 人物・来歴

2 フィルモグラフィ

2.1 宝プロ以前

2.2 宝プロダクション


3 ビブリオグラフィ

4 脚注

5 参考文献

6 関連項目

7 外部リンク

人物・来歴

1891年(明治24年)、長野県更級郡稲荷山町仲町(現在の同県千曲市稲荷山中町)に生まれる[1]。弟は高橋家の養子となった元長野県議会議員の高橋楙(たかはし しげる)である[1]

長じて東京に移り、正則英語学校(現在の正則学園高等学校)に進学する[1]。同校卒業後は、当初、貴金属貿易の職業に就いていた[1]。セール・フレーザー商会に在籍していた1922年(大正11年)5月、アメリカ合衆国の映画会社ユナイテッド・アーティスツが『東への道[6]国技館で公開した際に、同商会に支社を設立、以降のユナイテッド・アーティスツ作品での日本での配給を、岩堂全智とともに任される[7]。満32歳を迎える1923年(大正12年)には、同年9月1日に起きた関東大震災後しばらく実家に戻り[1]、その1か月後の同年10月11日付でユナイテッド・アーティスツに入社している[8]。同年12月、八千代生命による新しい映画会社、東亜キネマの設立に際して、牧野省三の推薦を受けて、同社の洋画輸入部門の顧問に就任している[1]。このころ、震災の影響でユナイテッド・アーティスツからの映画プリントは神戸港に入るため、高村は神戸市内に居を構えていた。「美男子」であった高村は牧野の長女・牧野冨榮と恋愛して同棲するが入籍はしていない[9]帝国キネマ演芸と牧野のマキノ映画製作所の合併話がもちあがり、これを交渉したのが高村であったが、これは立石駒吉の介入によって不成立に終った[10]

1924(大正13年)、高村が牧野省三を2週間で説得し、同年6月、東亜キネマは、牧野のマキノ映画製作所を買収、同社の等持院撮影所は「東亜キネマ等持院撮影所」に改称している[11][12]。1925年(大正14年)6月、東亜キネマから牧野省三が独立し、マキノ・プロダクションを設立、高村は東亜キネマに残留する[11]。1927年(昭和2年)2月、市川右太衛門が抱く牧野省三への不満を知った高村は、独立してプロダクションを構えるべく誘い、右太衛門はマキノを退社したが、結果的には笹川良一によって斡旋された奈良県生駒郡伏見村(現在の同県奈良市あやめ池北1丁目)の「あやめ池遊園地」に撮影所を開き、市川右太衛門プロダクションは高村とは無関係に設立されてしまう[13]

もともと牧野省三が設立した等持院撮影所は「東亜キネマ京都撮影所」と改称、小笹正人が所長に就任、同社は甲陽撮影所を閉じて京都撮影所(等持院)に一本化していたが、1929年(昭和4年)3月に小笹が退社し、オーナーの八千代生命が映画製作から撤退したため、高村が、同撮影所長に就任する[11]。同社は、阪急電鉄小林一三らの資金提供を仰いだが、1931年(昭和6年)9月には、経営不振のため、同撮影所を新会社、東活映画の撮影所としたため、高村は所長を解任、東亜キネマを退社した[11]。このとき、嵐寛寿郎もともに東亜キネマを退社、独立している[14]。いっぽう同年10月、マキノ・プロダクションの経営をひきついだ新マキノ映画株式会社が解散し、高村は、直木三十五らの協力を受けて大衆文芸映画社を設立、マキノ・プロダクションの所有した御室撮影所で映画製作を開始し、配給面については帝国キネマ演芸の後身である新興キネマと提携した[15][16]。翌1932年(昭和7年)2月、立花良介と組み、マキノ家本家と提携して正映マキノキネマを同撮影所内に設立、同撮影所を「正映マキノ撮影所」と改称して省三の妻・牧野知世子を所長に据えた[15]。この新社は、3作の映画を製作したが配給網が確立できず、撮影所が不審火で全焼し、わずか2か月で同社は解散した[15]。同年11月、東活映画社長を辞任した南喜三郎と組み、新しく宝塚キネマ興行を設立、東亜キネマを買収して興行網を獲得、バラックを建てた御室撮影所を「宝塚キネマ撮影所」と改称して、映画製作および配給業務を開始する[15]。1933年(昭和8年)7月には経営不振になって給与の遅配・欠配が始まり、同年9月で製作が不能になり、翌1934年(昭和9年)2月には、宝塚キネマ興行は解散を余儀なくされた[15]。解散を目前とした時期に、高村は初めて1作の映画を監督し、『片仮名仁義』の題で同年1月14日に公開している[2][3]


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