高村智恵子
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高村智恵子
1914年頃
生誕斎藤チヱ
(1886-05-20) 1886年5月20日
福島県安達郡油井村
死没 (1938-10-05) 1938年10月5日(52歳没)
東京市品川区
国籍 日本
著名な実績洋画、紙絵

高村 智恵子(たかむら ちえこ、1886年明治19年)5月20日 - 1938年昭和13年)10月5日旧姓:長沼)は、日本洋画家、紙絵作家。夫は彫刻家詩人高村光太郎。夫の光太郎が彼女の死後に出版した詩集『智恵子抄』でも知られる。目次

1 略歴

2 作品など

3 智恵子の生家・智恵子記念館

4 二階堂トクヨとの関係

5 脚注

5.1 註釈

5.2 出典


6 参考文献

7 関連項目

8 外部リンク

略歴

1886年(明治19年)5月20日、福島県安達郡油井村字漆原(現・二本松市油井)の酒造業・斎藤今朝吉(後に長沼家に養子に入り、長沼今朝吉となる)とせんの二男六女の長女として生まれた[1][2]。戸籍名は「チヱ」。長沼家は清酒「花霞」を醸造する酒造家で、使用人を多数抱えた資産家であった[2]

1901年(明治34年)に油井小学校高等科を卒業したのち福島高等女学校3年へ編入学した[1][2]1903年(明治36年)、同校を総代として卒業して日本女子大学校へと進んだ[1][2]。寮生として同校に入学した智恵子は普通予科を経て家政学部へと進んだが、在学中に油絵に興味を持つようになり、自由選択科目の洋画の授業ばかりを受けていたという[1][2]1907年(明治40年)に大学を卒業した後は、当時では珍しい女性洋画家の道を選び、反対する両親を説得して東京に留まり、太平洋画会研究所で絵画を学んだ[1][2]1911年(明治44年)には、同年9月に創刊された雑誌『青鞜』の表紙絵を描くなど[1]、若き女性芸術家として人々に次第に注目されるようになっていった[2]。また、青鞜社田村俊子らと親睦を深めた[2] 智恵子と光太郎

智恵子は光太郎の評論「緑色の太陽」に共鳴していたものの面識はまだ無かったが、同年12月、柳八重の紹介で光太郎のアトリエで光太郎と出会った[1]。光太郎との出会いは智恵子の心を揺り動かして絵画の創作を増進することとなり、1912年(明治45年)4月に太平洋画会展に2点の油絵を出品し、6月には団扇絵展を開催した[1][2]


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