高木 貞治
たかぎ ていじ
1953年頃
生誕1875年4月21日
日本、岐阜県大野郡数屋村
死没 (1960-02-28) 1960年2月28日(84歳没)
日本、東京都
国籍 日本
研究分野数学
研究機関東京帝国大学
出身校東京帝国大学
博士課程
指導教員ダフィット・ヒルベルト
博士課程
指導学生彌永昌吉
黒田成勝
正田建次郎
主な業績類体論、高木曲線、高木の存在定理
主な受賞歴文化勲章受章(1940年)
プロジェクト:人物伝
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高木 貞治(たかぎ ていじ、1875年〈明治8年〉4月21日 - 1960年〈昭和35年〉2月28日)は、日本の数学者。学位は、理学博士。東京帝国大学名誉教授。第1回フィールズ賞選考委員。文化勲章受章者、文化功労者[1]。 岐阜県大野郡数屋村(現:本巣市)に生まれる。岐阜尋常中学校(現:岐阜県立岐阜高等学校)を経て第三高等中学校(現:京都大学)へ進学し、1894年(明治27年)に卒業。 帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)数学科へ進み、卒業後にドイツへ3年間留学。ヒルベルトに師事し、多大な影響を受ける。 代数的整数論の研究では類体論の確立に貢献し、特に高木の存在定理の証明で知られる。 ヒルベルトの23の問題のうち、第9問題と第12問題(に関連した世界的な難問)を肯定的に解決した[2]。 『解析概論』『初等整数論講義』『代数的整数論』など多くの数学教科書を著した。特に『解析概論』は解析学入門の名著として知られ、第一版の刊行後50年以上経ても版を重ねて広く読まれている。また『近世数学史談』などの数学の啓蒙書も著している。 2011年(平成23年)に日本国内における著作権の保護期間が満了したため、Wikisourceや青空文庫で著書の公開作業が始まっている。ウィキソースには高木貞治に関するプロジェクトがあります。Wikisource:高木貞治プロジェクト 高瀬 (2010)の付録の年譜を参照。
略歴
経歴
1875年(明治8年) - 岐阜県に生まれる。
1891年(明治24年) - 第三高等中学校に入学。
1894年(明治27年) - 第三高等中学校を卒業、帝国大学理科大学数学科へ入学。
1898年(明治31年)
東京帝国大学を卒業。
ドイツへ留学。
1900年(明治33年)
ベルリン大学でフロベニウスの教えを受ける。
(?1901年(明治34年))- ゲッティンゲン大学でヒルベルトとクラインの教えを受ける。
東京帝国大学の助教授となる。
1901年(明治34年) - ドイツから帰国。
1902年(明治35年) - 谷としと結婚。
1903年(明治36年) - 学位論文を提出。
1904年(明治37年) - 東京帝国大学の教授となる。
1920年(大正9年)
類体論の論文「相対アーベル数体の一理論について」を発表。
ストラスブールで開催された国際数学者会議に参加。
1923年(大正12年)
任意の代数体における奇素数次相互法則を証明。
チェコスロバキアの数学物理学会の名誉会員に推薦される。
1925年(大正14年) - 帝国学士院の会員となる。
1929年(昭和4年) - オスロ大学から名誉学位を授与される。
1932年(昭和7年) - チューリッヒで開催された国際数学者会議に副議長として参加し、第1回フィールズ賞選考委員5人の一人に選ばれる[3]。
1936年(昭和11年) - 東京帝国大学の教授を定年退職。
1937年(昭和12年) - 海軍技術研究所の依頼により暗号機である 九七式印字機の規約数計算に協力。
1940年(昭和15年) - 文化勲章を授与される。
1944年(昭和19年) - 陸軍数学研究会(陸軍暗号学理研究会)の副会長に就任。
1955年(昭和30年) - 日光で開催された代数的整数論の国際会議で名誉議長を務める。
1960年(昭和35年) - 脳卒中のため歿する。享年86(満84歳没)。墓所は多磨霊園(24-1-61-18)
栄典
1912年(大正元年)12月18日 - 勲四等瑞宝章[4]
1926年(大正15年)7月2日 - 従三位[5]
1940年(昭和15年)11月10日 - 文化勲章[6]
1951年(昭和26年) - 文化功労者
1960年(昭和35年) - 勲一等旭日大綬章
代表的な著書『新式算術講義』