高木琢也
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同姓同名の美容師については「高木琢也 (美容師)」をご覧ください。

高木 琢也


名前
愛称アジアの大砲、ブーやん
カタカナタカギ タクヤ
ラテン文字TAKAGI Takuya
基本情報
国籍 日本
生年月日 (1967-11-12) 1967年11月12日(56歳)
出身地長崎県南島原市
身長188cm
体重85kg
選手情報
ポジションFW
利き足右足
ユース
1986-1989大阪商業大学
クラブ1
年クラブ出場(得点)
1990-1991フジタ 15 (3)
1991-1992マツダ 22 (9)
1992-1997サンフレッチェ広島 151 (53)
1998-1999ヴェルディ川崎 40 (11)
2000コンサドーレ札幌 17 (0)
通算245 (76)
代表歴2
1992-1997 日本44 (27)
監督歴
2006-2007横浜FC
2009東京ヴェルディ
2010-2012ロアッソ熊本
2013-2018V・ファーレン長崎
2019-2020大宮アルディージャ
2021-2022SC相模原
1. 国内リーグ戦に限る。2000年12月31日現在。
2. 1997年11月8日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

高木 琢也(たかぎ たくや、1967年11月12日 - )は、長崎県南島原市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者(JFA 公認S級コーチ)。現役時代のポジションはフォワード(FW)。元日本代表大阪商業大学卒業。2023年現在はJリーグV・ファーレン長崎の取締役兼CRO(クラブ・リレーションズ・オフィサー)を務める[1]

家族は妻と一男一女。第一子の長男はサッカー選手の高木利弥
選手時代の特徴

現役時代は、184 cm・85 kg(選手時代は188cm・82kgとなっていた)という恵まれた体格を生かしたポストプレーやヘディングを武器に得点を重ねたセンターフォワード。「アジアの大砲」と呼ばれ[2]ハンス・オフト監督政権下の日本代表におけるキーマンであった[3]マーク・ヒューズを憧れの選手としていた[3]
選手経歴

長崎県南高来郡北有馬町(現・南島原市)出身。小学生時代は野球少年で、「堀内2世」と周囲に言われた豪腕投手だった[注釈 1]。中学3年生の時、2年後に島原商業高校サッカー部監督の小嶺忠敏国見高校に異動するという情報を耳にしていた[注釈 2]。高校2年生から指導を受けられる予定であったため、島原商業ではなく、国見高校に進学する。2年生になり、小嶺が国見高校に赴任してきたとき、新3年生の部員はおらず、また、2年生の部員も小嶺の指導のあまりの厳しさに1人、2人と減り、秋になる頃には高木1人しか残っていなかった。そのため、小嶺新体制の国見高校サッカー部のいわば「長男坊」として、早くからチームのまとめ役を任された。3年時には主将としてインターハイに初出場し、国見高校の選手を中心に編成された長崎県選抜チームで臨んだ国体サッカー少年男子の部では、準優勝と得点王に輝いたが、全国高校サッカー選手権では県予選で後に同僚となる前川和也を擁する平戸高校に敗れて初出場は果たせなかった[4]

高校卒業後の1986年に大阪商業大学へ入学し、同大学のサッカー部でプレー。小嶺の師でもある上田亮三郎から指導を受け、関西学生サッカーリーグ戦では1987年と1988年の2度、1部リーグで優勝した。

大学卒業後、当時のマツダサッカー部監督・今西和男からの誘いを断り[5]フジタ(現:湘南ベルマーレ)に入団[5]。しかしチームに合わず[5]、1991年今西からもう一度声を掛けられマツダに入団[5]。早くから攻撃の中心選手として活躍した。またマンチェスター・ユナイテッドFCに短期留学したこともあった。マツダがサンフレッチェ広島F.Cとして発足するとプロ契約、1992年にはJSL新人王を獲得。

1993年5月26日の第4節横浜マリノス戦での決勝ゴールが[6] Jリーグ初ゴールとなった[7]。1994年には、イワン・ハシェックと抜群のコンビで、14ゴールを決め、広島の1stステージ優勝の原動力となった。しかし、同年のJリーグチャンピオンシップの第2戦でヴェルディ川崎で後に監督として指導を受けることになる加藤久のスライディングにより負傷した。以後、常に故障に悩まされ続けるも、広島の中心選手として活躍を続ける。1996年9月21日のジェフ市原戦では、サンフレッチェの日本人選手としては初となるハットトリックを決めた[8]。1997年5月3日の京都戦でのゴールはJリーグ3500点目のゴールとなった[9]

1998年、広島の経営悪化に伴い移籍金を得るため放出を余儀なくされ、本人も環境を変えるいい機会として、ヴェルディ川崎へ移籍。前線の基点としてプレーし、開幕戦となったベルマーレ戦で移籍後初ゴールを挙げ、第9節のアビスパ福岡戦ではハットトリックを決めるなど[10]、ファーストステージだけで9ゴールを挙げたが、怪我でセカンドステージのほとんどを欠場し、1シーズン目は22試合9ゴールの成績を残した[7]。しかし、次第に怪我により活躍できなくなっていく。V川崎で2シーズンプレーした後、1999年末には日本代表のコーチや監督として指導を受けていた岡田武史監督に誘われ、コンサドーレ札幌へ移籍。初めてJ2でのプレーとなった2000年は札幌のJ2優勝メンバーとなった。だが、自らはリーグ戦初の年間ノーゴールに終わり[7]、同年を最後に、膝の負傷などを理由にして現役を引退した。
代表経歴

1992年にはハンス・オフト監督が指揮する日本代表にも初選出され、ダイナスティカップ1992では決勝の韓国戦でのゴールを含め[11]、4試合で5ゴールを挙げて得点王に輝き、広島で開催されたアジアカップでは決勝のサウジアラビア戦で決勝ゴールを決め[12]、日本の初優勝に貢献[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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