高木 正征
選手情報
ラテン文字Masayuki(Seisei) Takagi
国籍 日本
競技トラック競技
(短距離走)
種目100m・200m
大学京都帝国大学
生年月日1904年5月??日
生誕地 日本 東京府東京市赤坂区青山高樹町
(現・東京都港区南青山)
没年月日 (1994-06-01) 1994年6月1日(90歳没)
身長160 cm
自己ベスト
100m10秒8(1927年)
200m21秒9(1927年)
獲得メダル
陸上競技
日本
極東選手権競技大会
銀1923 大阪100ヤード
銀1927 上海
高木 正征(たかぎ まさゆき(または「せいせい」)[注釈 1]、1904年5月[6] - 1994年6月1日[7])は、日本の陸上競技(短距離走)選手。極東選手権競技大会では100メートルおよび100ヤード、220ヤードで入賞を果たし、100メートルと200メートルで日本記録(タイ記録を含む)も樹立するなど、その才能を嘱望されながら、旧制山形高等学校時代に事実上陸上競技を引退した。 丹南藩藩主の分家筋に当たる高木正秋(高木正得の弟[注釈 2])を父として、東京府東京市赤坂区青山高樹町(現・東京都港区南青山)で生まれる[6]。「高樹町」の町名は、丹南藩邸があったことに由来し、高木の生家も1000坪の敷地に80坪の邸を構えていた[6]。 暁星中学校時代に陸上競技を本格的に始め、旧制高等学校や大学からの中学校招待レースでいくつも優勝を飾る[6]。中学陸上部の1年先輩に与謝野秀がおり、「本格的にトレーニングをしてみろ。おまえなら日本一の選手になれるぞ」と高木を激励したという[6]。その言葉を受けて高木は競技に打ち込み、1921年の第9回日本陸上競技選手権大会の100メートルに、11秒2の日本タイ記録で優勝する[6]。こうした好記録に、大日本体育協会[注釈 3]の役員から目をかけられ、東京帝国大学のグラウンドに招かれてトレーニングを受けるようになった[6]。岸清一や沢田一郎が指導に当たり、沢田がアメリカ合衆国から招いたコーチにも教えを受けた[6]。1922年4月23日の第3回東西対抗関東予選で、日本では初めてとなる11秒0の日本新記録を樹立した[8][9]。さらに1923年5月の第6回極東選手権競技大会(大阪市)100ヤード決勝では、日本人トップとなる2位に入賞する(優勝はフィリピンのフォルチュナト・カタロン)[10][注釈 4]。この大会では220ヤードでも2位に入賞している[3]。高木は母から極東選手権競技大会入賞の「褒美」としてオートバイをプレゼントされたが[2]、両親はそれ以上の陸上競技への傾倒を快く思わず、旧制第一高等学校への進学を望んだことからその後は受験勉強に専念したものの、不合格となる[11]。
来歴