高望王
[Wikipedia|▼Menu]

 凡例平 高望 / 高望王
時代平安時代前期 - 中期
生誕不詳[注釈 1]
死没不詳[注釈 2]
改名高望王→平高望
官位従五位下正親正上総介
主君宇多天皇醍醐天皇
氏族桓武平氏
父母父:葛原親王?、高見王?
母:橘春成の娘?、仲野親王の娘?、藤原是雄の娘?
妻正室:藤原良方の娘
側室:藤原範世[注釈 3]の娘
国香良兼良将良?[注釈 4]良文
良広良持[注釈 5]良茂良正[注釈 6]
藤原維幾
テンプレートを表示

平 高望(たいら の たかもち)は、平安時代中期の賜姓皇族。高望王とも。桓武天皇の孫(もしくは曾孫)にあたり、高望王流桓武平氏の祖。官位従五位下正親正上総介
経歴

寛平元年(889年5月13日葛原親王の第三王子高見王[注釈 7]の子高望王は、宇多天皇勅命により平朝臣を賜与され臣籍降下し平高望を名乗った[注釈 8]。『日本紀略』寛平元年5月13日条によれば、高望王以外にも4人が平姓を下賜されたという。

昌泰元年(898年)、高望は上総介に任官した。当時の上級国司は任地に赴かない遙任も少なくなかったが、長男国香、次男良兼、三男良将を伴って任地の上総国に赴き武射郡屋形を本拠とした[7]。高望親子は任期が過ぎても帰京せず、国香は前常陸大掾源護の娘を、良将は下総国相馬郡の犬養春枝の娘を妻とするなど、在地勢力との関係を深め常陸国下総国上総国の未墾地を開発、自らが開発者となり生産者となることによって勢力を拡大、その権利を守るべく武士団を形成してその後の高望王流桓武平氏の基盤を固めた。

しかしその後、延喜2年(902年)に西海道国司となり大宰府に居住、延喜11年(911年)に同地で没する[注釈 2]。なお、この間の延喜3年(903年)には、昌泰の変により失脚した菅原道真も同地で薨去している。
官歴

寛平元年(889年) 5月12日:上総介[8][9][注釈 9]

系譜

父:
高見王または葛原親王[注釈 7]

母:橘春成[10](または仲野親王[11]藤原是雄[12])の娘

正室[注釈 10]藤原良方の娘

長男:平良望(国香)(?-935) - 子孫は伊勢平氏常陸平氏

次男:平良兼(?-939)

三男:平良将

男子:平良?(又は良孫)


側室:藤原範世(または藤原師世)の娘

男子:平良文(886-953) - 子孫は坂東八平氏


生母不明の子女

男子:平良広

男子:平良持(又は良村。良将と同人ともされる)

男子:平良茂

男子:平良正(良茂の子とも)

女子:藤原維幾室(藤原為憲母)


脚注[脚注の使い方]
注釈^ 生年月日は、延暦25年/大同元年(806年[1]と、承和6年9月7日839年10月21日[2]と、嘉承3年(850年2月18日[3]とする資料がある。
^ a b 没年月日は、延喜11年5月24日911年6月28日[2]と、延喜11年(911年)5月4日[4]、延喜12年(912年9月24日[5]、延喜17年(917年1月24日[3]とする資料がある。
^ または藤原師世。
^ 又は良孫。
^ 又は良村。良将と同人ともされる。
^ 良茂の子とも。
^ a b 父は高見王(葛原親王の子)との説と、葛原親王(桓武天皇第 5皇子)との説がある。『尊卑分脈』、『本朝皇胤紹運録』、『桓武平氏系図』[6]等の各種系図では高見王の子となっているが、高見王の実在には疑問が提示されている。
^ 貞観3年(861年)に高望王は清和天皇の勅命で平朝臣を賜与され臣籍降下したとする[1]
^ 『平家勘文禄』では寛平2年とする。
^ 高望の各息子の生母にはいくつかの説があり、正確なことははっきりしない。

出典^ a b 『宇賀一族の研究と系譜』『南路志』
^ a b 『千葉大系図』
^ a b 『千馬家系図』
^ 『平姓葛西系図』


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:21 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef