高月院
高月院本堂
(2019年(令和元年)8月)
所在地愛知県豊田市松平町寒ケ入44番地
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度3分2.38秒 東経137度15分51.54秒 / 北緯35.0506611度 東経137.2643167度 / 35.0506611; 137.2643167
高月院(こうげついん)は、愛知県豊田市にある浄土宗の寺院である。山号を本松山、院号を高月院、寺号を寂静寺(じゃくじょうじ)と称する知恩院末寺で、本尊として阿弥陀如来を祀る[1]。 徳川将軍家の祖松平氏の発祥地とされる旧三河国加茂郡松平郷にあり、草創期の松平氏と結びつくことで教線を地域に広げ[2]、有力教団として14世紀後半から15世紀末にまでに三河国西部(西三河)に浄土宗を定着させた鎮西派寺院のひとつに数えられる[3]。隣松寺(愛知県豊田市)、信光明寺(愛知県岡崎市)、大樹寺(同)といった近隣の浄土宗寺院と関係が深く、開創時期や松平氏縁故などでも共通する点が多いものの、本院は他寺院に比べると開創のいきさつがやや不明瞭な寺でもある(後述)。しかしながら、松平氏の最初の菩提寺として早くから堂宇が整備され、その修繕のための徳川将軍家からの手厚い援助は江戸幕府開幕から明治維新まで続いている[4]。 本院の境内地は、松平氏の初期の状況を伝え、徳川将軍家による始祖の顕彰のありようを考える上でも重要な遺跡として、内6,024.00平方メートルが国の史跡「松平氏遺跡」の一部になっている[5]。 寺伝によれば創建は1367年(貞治6年・正平22年)、当地松平郷の主であった在原信重(松平太郎左衛門尉信重)を開基とし、その庇護を受けた見誉寛立
概要
沿革
伝承松平郷園地にある祝聖文(松平親氏願文)碑
(2009年(平成21年)9月)
見誉は俗名を足助重政といい、足助氏第7代足助重範の舎弟であったとも[注 2]、その遠戚にあたる足助重宗(重範のまたいとこか)の次男であったともいわれる[注 3]。一族をあげて参加した笠置山の戦い(1331年(元弘元年))で敗走したあとに知恩院に入り、知恩院第8世の如一に師事して剃髪・授戒をうけた上で帰国、功徳の場として寺を設け、寂静寺と号したという[注 4]。
開基とされる在原信重は14世紀後半頃に松平郷の地を知行していたという公家の士で、父は在原業平の19代子孫にあたり[注 5]、弘安年間(1278年 - 1288年)もしくは康永年間(1342年 -1345年)に当地へ居を移して山野を切り開き松平郷を起こしたとされる在原信盛であった[注 6]。信重も父の跡を継いで松平郷を治め、領地を12の具足(道や橋をこしらえる道具)をもって巡察して善政につとめたほか、慈悲が深く、連歌にも秀でていたという[注 7]。
時衆の僧侶といわれ、この信重に見込まれて太郎左衛門家の婿となったという松平氏初代松平親氏は、寂静寺が草創された翌年の1368年(応安元年・正平23年)に松平郷に入郷[注 8]、父祖新田氏の再興を念願しながら寛立に深く帰依、松平氏の菩提寺とすることを約した上で、祝聖文[注 9]を聴聞して自らの願文とし、仏法僧の三宝を信仰したという[注 10]。