人口48,552人、面積13.34km²、人口密度3,640人/km²。(2024年4月1日、推計人口)
以下の1町を含む。 相模川(馬入川)と境川に挟まれた地域からなる。南北に伸びる相模平野の中心地域で、相模野台地の大部分を占め、南部は湘南砂丘地帯になる。 中世末までは現相模原市緑区三井および旧城山町(現相模原市緑区の一部)北部(中沢、川尻ほか)も当郡に属していたが、江戸時代初期に愛甲郡北部と合わせて津久井県とされた(1870年(明治3年)に津久井郡と改称)。 かつて高座郡に属していた地域は現在以下の市となっている。 郡区町村編制法に基づく行政区画として発足した当時に隣接していた郡は以下の通り。 古くは「たかくらぐん」とも読んだ。『日本書紀』天武天皇4年(675年)10月庚寅(廿日)条に「相摸国言す。高倉郡の女人、三男を生む」と、相模国に関する最初の記録として「高倉郡」の名が見える。713年(和銅6年)の好字二字令により、高座郡の表記となる[1]。『和名抄』で「太加久良」と訓んでいることから、高座と書いて「たかくら」と呼んだ時代が続いたと考えられる。 海老名市で発掘された国分寺跡の存在から、高座郡に相模国の国府が置かれていた可能性が指摘されていたが、考古学の成果では、平塚市四之宮の稲荷前A遺跡で「国厨」「大住厨」銘のある墨書土器が出土し、8世紀代に遡る政庁規模の掘立柱建物跡が検出されたことなどから、初期の国府は高座郡ではなく大住郡にあった可能性が高まっている[2][3]。なお、高座郡の郡衙跡は、茅ヶ崎市にある神奈川県立茅ヶ崎北陵高等学校の旧校地に広がる下寺尾官衙遺跡群と考えられている[4]。寒川町には相模国一宮の寒川神社が鎮座する。 津久井郡(現:相模原市緑区)のうち、旧城山町の相模川東岸と旧津久井町三井にあたる地域(上川尻村、下川尻村、上中沢村、下中沢村、三井村)はもともと高座郡の領域であったとされる。 南西部の相模川下流左岸の沖積平野や目久尻川、引地川、境川沿いの低地、南部の台地末端の谷戸は早くから開発が進み水田として利用された。国分寺や国府の所在が推定される現在の海老名周辺には条里制の遺構が見られる。これに対して当郡中央部から北部に広がる台地上は平坦ではあるが水を得ることが難しいために開発が進まず、「相模野」と呼ばれる原野となっていた。 鎌倉時代には時衆教団の活動拠点となり、当麻(たいま。現相模原市南区)に無量光寺が開かれ、藤沢に開かれた清浄光院(のち清浄光寺。遊行寺とも。鎌倉郡側に位置する)と同教団の本山の地位を争った。 戦国時代は小田原の後北条氏の支配下にあり、「東郡」と称した。1590年(天正18年)の後北条氏滅亡後は徳川家康の支配下に入る。 江戸近傍に位置する当郡は、南部の東海道沿いのをはじめとして多くの村が幕府領(天領)とされたほか、旗本領や藩領の飛び地も多く設けられ、郡全体が一円的に支配されることはなかった。時代が下るにつれて複数の旗本や藩の相給とされる村が増え、幕末の段階では幕府単独あるいは旗本・大名1家のみの支配とされた村はわずかしかなく、その支配は極めて錯綜していた。 江戸時代中期以降、周辺農村の入会地として利用されていた相模野台地上における新田開発が進められ、清兵衛新田(相模原市)などの新田が成立した。 郡内の幕府領は韮山代官の支配下に置かれていたが、1858年(安政5年)に安政五カ国条約が締結され、翌1859年(安政6年)に神奈川奉行が設けられると、条約の定める外国人遊歩区域である「神奈川十里四方」に属する当郡における外国人に関する事務は神奈川奉行が扱うこととされた。 「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。●は村内に寺社領が、○は寺社除地(領主から年貢免除の特権を与えられた土地)が存在。幕府領は代官・江川太郎左衛門支配所(韮山代官所)が管轄した。
寒川町(さむかわまち)
郡域
綾瀬市
海老名市
相模原市(中央区・南区の全域、緑区橋本一 - 七丁目、東橋本一 - 四丁目、西橋本一 - 五丁目、橋本台一 - 四丁目、二本松一 - 四丁目、相原一 - 六丁目、元橋本町、大山町および大字大島、上九沢、下九沢、田名)
座間市
茅ヶ崎市
藤沢市(西富一・二丁目、大鋸一 - 三丁目、藤が岡一 - 三丁目、弥勒寺一 - 四丁目、渡内一 - 四丁目、村岡東一 - 四丁目、川名一・二丁目、片瀬一 - 五丁目、片瀬山一 - 五丁目、片瀬目白山、片瀬海岸一 - 三丁目、江の島一・二丁目および大字西富、大鋸、弥勒寺、小塚、宮前、高谷、渡内、柄沢、川名、片瀬を除く全域)
大和市
隣接していた郡
神奈川県 : 鎌倉郡、多摩郡(後に南多摩郡)、津久井郡、愛甲郡、大住郡(後に中郡)
概要高座郡衙跡の下寺尾官衙遺跡群(神奈川県茅ヶ崎市)神奈川県立茅ヶ崎北陵高等学校旧校地。
中世以前
近世以降
近代以降の沿革
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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