高平哲郎
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高平 哲郎
誕生 (1947-01-03) 1947年1月3日(77歳)
東京都杉並区高円寺
職業編集者・放送作家劇作家演出家
言語日本語
国籍 日本
最終学歴一橋大学社会学部
活動期間1970年代 -
ジャンルテレビ番組雑誌演劇 ほか
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高平 哲郎(たかひら てつお、1947年1月3日 - )は、日本の編集者・放送作家劇作家演出家

晶文社を創立した小野二郎義兄にあたる。東京都杉並区出身。
経歴・人物

1953年学習院初等科試験に落ち、武蔵野学院小学校に入学高円寺産婦人科を営んでいたが大の映画好きで、高平の少年時代、一家は毎週末には銀座新宿映画館に出かけて、映画を見ていた。裕福な家庭であったため、1953年の日本テレビ開局の年にはすぐテレビが購入され、高平は落語や演芸も好きとなる。

一橋大学社会学部卒業[1]

1956年から始まった「東宝ミュージカル」開始とともに、小学生のうちから通いつめ、中学2年生でアチャラカ喜劇の集大成作品『雲の上団五郎一座』を見る。小学5年生の時に姉が小野二郎結婚。小野は高平を実の弟のようにかわいがり、安藤鶴夫興津要の落語評論集を買ってくれるなどした。

武蔵中学校・高等学校景山民夫加藤芳一と知り合う。加藤は高平の弟子的存在のライター・放送作家となった。中学高校時代にあこがれていたのは、植草甚一古今亭志ん生立川談志青島幸男永六輔赤塚不二夫だった。志ん生以外の人物とは、後に出会うことになる。2年浪人して一橋大学社会学部に入学。在学中、義兄の小野に誘われて晶文社の嘱託として編集に従事し、小林信彦の著作等を担当する。

南博のゼミで、卒論『日本のジャズ史』を提出して大学を卒業した後、博報堂に入社しコピーライターになり、晶文社の嘱託編集者も並行して行っていた。1973年に博報堂を退社。雑誌『WonderLand』(晶文社)・『宝島』(晶文社からJICC出版局(現宝島社)へ)創刊に携わった後、1975年に独立して、編集プロダクション「アイランズ」を設立。「VAN99ホール」を退社した北吉洋一、劇団東京ヴォードヴィルショーの舞台監督の谷口秀一らを入社させ、奥成達らと『小説マガジン』の編集、執筆を行う。その後、奥成達と高信太郎に、新宿歌舞伎町の「ジャックと豆の木」(通称「ジャック」)というスナックに連れていかれ、タモリの密室芸(奥成達が命名)を鑑賞し、馬鹿騒ぎをする。「ジャック」の常連には他に、長谷邦夫山下洋輔森山威男坂田明三上寛長谷川法世南伸坊らがいた。

1976年、「ジャック」の客たちと盛り上がって企画した「チャンバラトリオを銀座で見る会」を開催。司会はタモリ、解説は高信太郎であった。やがて、タモリが芸能人としてデビューしたことで、テレビのコメディ番組の構成作家となる。

1977年から、タモリの初期のLP『タモリ』『タモリ2』などをプロデュース。また、1978年には「全日本満足問題研究会」(赤塚不二夫、赤瀬川原平、奥成達、高信太郎、長谷邦夫)のLP『ライブ・イン・ハトヤ』もプロデュースした。以降、タモリとの関係は深く、デビューから片目にアイパッチを付けてテレビに出演していたタモリに、「特徴のない顔だ」と言い、レイバンサングラスを奨めて掛けさせたのは高平である。以来、サングラスはタモリのトレードマークとなっている。

1978年、初めてニューヨークへ行く。以降、毎年のように訪れて、本場のショー・ビジネスの世界に触れる。劇団東京ヴォードヴィルショーの脚本なども執筆。他にも多数の舞台作品(主にミュージカル)を、作・演出しており、近年は舞台での活動が主となっている。なかでも、2002年から公演しているタップダンス・ミュージカル「ダウンタウン・フォーリーズ」シリーズは、人気作品となっている。

映画・演劇の著述・インタヴュー・聞き書きを行い、1984年取材した千葉真一の熱狂的なファンにもなっている[1]。1988年からJR東日本の雑誌『トランヴェール』の責任編集を3年間つとめた。1994年には中野サンプラザで行われた「筒井康隆断筆祭」の構成を担当した。
面白グループ

1973年の「ワンダーランド」でのインタビューで面識を得ていた赤塚不二夫に、1977年に再会。赤塚に「友達を紹介してくれない?」といわれ、演出家の滝大作を紹介したところ、意気投合。タモリも加えた4人で、毎晩のように新宿二丁目を訪れ、坂田明内藤陳小松政夫団しん也たこ八郎三上寛研ナオコ柄本明所ジョージTHE ALFEE劇団東京ヴォードヴィルショーの面々などが加わり、毎晩のようにバカ騒ぎをし、タモリが密室芸をくり広げた。赤塚はこの集団を「面白グループ」と命名した。

1978年3月には、タモリの初LPの完成記念キャンペーンとして、『タモリ・ヴォードビル・ウィーク』を企画。高平がインタビューして面識を得ていた由利徹を赤塚に紹介して、また意気投合。由利の弟子のたこ八郎も同席するようになり、赤塚家の居候は、タモリからたこ八郎にかわった。そして、たこ八郎から紹介された山本晋也も「面白グループ」に加わる。同年、日活ロマンポルノにて、監督山本晋也脚本:面白グループ、主演:柄本明、主題歌:所ジョージ、音楽:アルフィーで、『赤塚不二夫のギャグポルノ 気分を出してもう一度』が制作される。

1979年には、東映で『ケンタッキー・フライド・ムービー』の日本版『下落合焼とりムービー』を、監督:山本晋也、出演:面白グループの面々で制作。同年、渋谷公会堂で「第一回いたいけ祭り」という、タモリや赤塚の「宴会芸」を見せるイベントを行うが赤字。奥成達編集で書籍『空とぶ宴会芸』が刊行され、赤字を埋めた。面白グループ名義で、当時ヒットしていた女子大生二人が執筆した書籍『ANO・ANO(アノアノ)』のパロディ本、『SONO・SONO(ソノソノ)』を刊行しベストセラーに。1986年には『ソノソノ』をミュージカル・ショーにして、銀座博品館劇場で『オー・ソノソノ!』が上演された。
作品
著書

みんな不良少年だった(白川書院、1977年1月) のち河出文庫

空飛ぶ冷し中華(「
全日本冷し中華愛好会」名義、住宅新報社、1978年)

空飛ぶ冷し中華 Part2(「全日本冷し中華愛好会」名義、住宅新報社、1978年)

共著:山下洋輔筒井康隆奥成達平岡正明坂田明・日比野孝二・河野典生上杉清文・山口泰・伊達政保・舎人栄一・岡崎英生・瀬里なずな・小山彰太・池上比沙之・堀晃黒鉄ヒロシ赤瀬川原平高信太郎長谷邦夫南伸坊末井昭長谷川法世タモリ吉峯英虎赤塚不二夫・高平哲郎・朝倉喬司


定本ハナモゲラの研究(講談社、1979年)

共著:赤瀬川原平・赤塚不二夫・朝倉喬司・糸井重里・上杉清文・及川正通・岡崎英生・、奥成達・鏡明加藤芳一・高信太郎・小山彰太・坂田明・高平哲郎・タモリ・筒井康隆・中原仁・中村誠一・山口泰・山下洋輔・湯村輝彦横田順彌


星にスイングすれば(晶文社、1980年12月)

SONO SONO スーパーおじさんの告白メッセージ(アイランズ、1981年5月)

共著:滝大作・赤塚不二夫・タモリ・高平哲郎


スラップスティック・ブルース(冬樹社、1981年7月)

由利徹が行く(白水社、1981年12月)

変人よ我に返れ(PHP研究所、1983年6月)

ザ・フィフティーズ 最高にゴージャスなアメリカン・スタイル(実業之日本社、1984年8月**和田 誠 (著), 片岡 義男 (著), **共著:和田誠片岡義男内藤陳、高平哲郎、わたせせいぞう

話は映画ではじまった part 1(晶文社、1984年8月)

話は映画ではじまった part 2(晶文社、1984年9月)

有名人 おさわがせメディア表現論(竹書房、1988年10月)

共著:中上健次野田秀樹・高平哲郎


ナオコのどうゆー関係こうゆー関係 緊張関係から肉体関係まで(研ナオコ著・高平構成、近代映画社、1991年7月)

スポーツのフォーカス 1982-1991(奥成繁著・高平編集、近代映画社、1992年10月)

スタンダップ・コメディの勉強 アメリカは笑っている(晶文社、1994年2月)

それでも由利徹が行く(白水社、1996年5月)

由利徹が行く 増補新版(白水社、1996年8月)

銀座の学校(1997年10月)

モダン・ジャズの勉強をしよう (植草甚一ジャズ・エッセイ大全) (高平編集 晶文社 1998年4月)

ぼくの好きなジャズマンたち (植草甚一ジャズ・エッセイ大全)(高平編集 晶文社 1998年5月)

あなたの想い出 Memories of You(晶文社、2000年12月)

ぼくたちの七〇年代(晶文社、2004年1月)

アチャラカ(ビレッジセンター出版局、2004年2月)

新宿Dig Dug物語 中平穂積読本(東京キララ社、2004年9月)

植草さんについて知っていることを話そう(編著、晶文社、2005年1月)

以下のメンバーと高平の対談。中平穂積矢吹申彦矢崎泰久和田誠来生えつこ平野甲賀片岡義男、瀬戸俊一、磯田秀人、奥成達、伊藤八十八、石川次郎渡辺和博渡辺貞夫日野皓正、山下洋輔、内藤陳、タモリ、野田秀樹、森田芳光山本容子大岡玲津野海太郎坪内祐三


白く染まれ ホワイトという場所と人々(宮崎三枝子著・高平編、IBCパブリッシング、2005年9月)

面白いほどよくわかるジャズの名演250 モダン・ジャズ黄金期を彩るプレイヤーの人生と魂の名演を徹底紹介!(アドリブ編、中村誠一・高平監修、日本文芸社、2009年12月)


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