高市皇子
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高市皇子
時代飛鳥時代
生誕白雉5年(654年)?[1]
薨御持統天皇10年7月10日696年8月13日
別名後皇子尊
墓所三立岡墓(大和国広瀬郡
官位浄広壱太政大臣
父母父:天武天皇、母:宗形徳善尼子娘
兄弟高市皇子、草壁皇子大津皇子忍壁皇子穂積皇子長皇子弓削皇子磯城皇子舎人親王新田部親王
御名部皇女但馬皇女?
長屋王鈴鹿王門部王山形女王河内女王
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高市皇子(たけちのみこ・たけちのおうじ)は、天武天皇の皇子(長男)、母は宗形徳善の娘、尼子娘壬申の乱では近江大津京を脱出して父に合流し、美濃国不破で軍事の全権を委ねられ活躍した。持統天皇の即位後は太政大臣になり、以後は天皇皇太子を除く皇族・臣下の最高位になった。
生涯
出生

大海人皇子(後の天武天皇)の皇子(長男)として誕生。母は尼子娘。名の由来は諸説あるが、大和国高市郡にて育ったといういわれから。大和国外山に鎮座する宗像神社 (桜井市)は高市皇子が母方の氏神を祀り創建したと伝わる。
壬申の乱

672年、壬申の乱の勃発時、吉野宮にいた父とは別居して、高市皇子は近江大津京にあった。天武天皇元年6月24日に行動を起こした大海人皇子は、大分恵尺を使者として、高市皇子と大津皇子に事を告げ、伊勢で会うよう命じた[2]

2人の皇子は別行動をとり、高市皇子は鹿深を越えて6月25日に積殖山口で父に追いついた。鹿深(かふか)は甲賀、積殖は伊賀阿拝郡の柘植である。このとき従っていた者は、民大火赤染徳足大蔵広隅坂上国麻呂古市黒麻呂竹田大徳胆香瓦安倍)であった。高市皇子はそのまま大海人皇子の一行に加わった。大津皇子は遅れて鈴鹿関に着き、無事に合流した。

6月26日、伊勢の朝明郡郡家の手前で、一行は村国男依に出会った。男依は、美濃の軍3000人で不破道を塞ぐことができたと報告した。大海人皇子は郡家に着いてから高市皇子を不破にやって軍事を監督させ、東海と東山に動員を命じる使者を送った。

6月27日、高市皇子は不破から桑名郡家にいた父に使者を送り、「御所から遠くにあって、政治を行うのに不便です。近い所にいてください」と要請した。そこで大海人皇子は野上に移った。この日、不破においた伏兵が、西から来た敵の使者、書薬忍坂大麻呂を捕らえた。高市皇子は和?から野上まで父を出迎え、敵の使者のことを報告した。

釈日本紀』が引用する調淡海安斗智徳の日記によれば、このとき大海人皇子は、唐の人たちに「汝の国は戦が多い国だ。きっと良い戦術を知っているのではないか」と問うた。一人が進んで言うには、「唐国では先ず遣者と観者をやって地形の険平と消息を見させます。軍を出して夜襲したり昼撃したりしますが、深い術は知りません」。そして書紀の次の場面に移る。

大海人皇子は高市皇子に、「近江朝では、左右大臣と智謀の群臣が一緒に議を定めている。今朕はともに事を計る者がない。幼少の子供がいるだけだ。どうしたものか」と言った。高市皇子は腕まくりをして剣を握りしめ、「近江の群臣は多いといえども、どうして天皇の霊に逆らえますか。天皇独りであっても、ここに臣高市、神祇の霊を頼り、天皇の命を請け、諸将を率いて征討します。これをどうやって防げましょうか。」と答えた。大海人皇子は誉めて高市の手をとり背を撫でて、「慎め、怠るな」といった。そこで鞍馬を与え、軍事をすべて委ねた。

高市皇子は和?(わざみ)に帰り、大海人皇子は野上に行宮を作った。和?は和?原(和射見が原)のことで、後の関ヶ原盆地を指す。不破関はその西方の入り口、野上は東の端にある。各地から来た大海人皇子の軍勢は、和?に集結して高市皇子に掌握されたと考えられる。

28日に大海人皇子は和?に出向いて軍事を検校して帰った。29日にも和?に行き、高市皇子に命令を与え、軍衆に号令して、また野上に帰った。

日付は不明だが、6月末か7月初めに、敵の小部隊が玉倉部邑を衝いたが、出雲狛が撃退した。

7月2日、大海人皇子はそれぞれ数万の2つの軍を送り出した。一方は伊勢から倭(大和)に向かって大伴吹負軍の増援となり、もう一方は不破から出て近江に直に入った。これ以後の戦闘で、高市皇子の名は見えない。近江進攻軍とともにあり、指揮の実際は諸将に委ねたか[3]、なお和?にあってさらに遠方から来る軍を受け入れたのであろう[4]

7月23日に大友皇子(弘文天皇)が自殺したことで、壬申の乱は終わった。8月25日に、大海人皇子は高市皇子に命じて、近江の群臣を処罰させた。
天武天皇の時代

乱の終結した直後、天武天皇2年(673年)2月に即位した天武天皇の皇親政治のもと、高市皇子を除く他の皇子たちはまだ幼かったが、『日本書紀』天武天皇4年(675年)11月4日の条には既に、高市皇子より以下、小錦より以上の大夫らに衣、袴、褶、腰帯、脚帯、机、杖を賜う」とある。

天武天皇8年(679年)5月6日に、天皇、皇后(持統天皇)、草壁皇子大津皇子、高市皇子、川島皇子忍壁皇子志貴皇子は、吉野宮で互いに助け合うことを約束した(吉野の盟約)。10日に六皇子が大殿の前で天皇を拝した。天武天皇が自らの死後に壬申の乱のような皇位継承争いが起こることを恐れたためとされる。

この頃から高市皇子は天武天皇の皇子の中で第三の地位とされるようになった。皇女を母にもつ草壁皇子、大津皇子に次ぐ。またこの頃より、天武天皇の皇子たちは病気見舞いや弔問にしばしば遣わされた。高市皇子は、天武天皇9年(680年)5月20日、飛鳥寺の弘聡という僧が死んだとき、大津皇子とともに弔問に遣わされた。同年7月25日、舎人王の病気が重くなったので、高市皇子が遣わされて見舞いした。翌日舎人王が死ぬと、高市皇子と川島皇子が弔問に遣わされた。翌9年(681年)11月17日に、恵妙という僧が死んだため、3皇子が遣わされて弔った。高市皇子もその一人だったと思われる。11年(684年)7月9日には、膳摩漏の病気見舞いに草壁皇子と高市皇子が遣わされた。


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