高嶺秀夫
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高嶺 秀夫
1909年撮影(56歳)。
誕生 (1854-10-06) 1854年10月6日(嘉永7/安政元年8月15日
陸奥国北会津郡若松城下(現・福島県会津若松市
死没 (1910-02-22) 1910年2月22日(55歳没)
墓地染井霊園東京都豊島区駒込
職業教育者官吏
国籍 日本
最終学歴オスウィーゴ師範学校
代表作『教育新論』(翻訳書:1885-1886年)
配偶者専(中村清行娘)
子供俊夫(次男)昇(三男)、誠子(長女・清水与七郎妻)、敬子(次女・土田誠一妻)
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日本政治家高嶺 秀夫
小石川区会議員[1]
在任期間1895年11月 - 1899年1月1日
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高嶺 秀夫(たかみね ひでお、1854年10月6日(嘉永7/安政元年8月15日[2]) - 1910年明治43年)2月22日)は明治時代日本教育者。旧会津藩臣。

慶應義塾(現・慶應義塾大学)の塾生・教員を経て、師範教育調査のため文部省によりアメリカ合衆国へ派遣され、オスウィーゴ師範学校(現・ニューヨーク州立大学オスウィーゴ校 SUNY Oswego)に留学。帰国後は東京師範学校及び東京高等師範学校(ともに現・筑波大学)で教員・校長を務め、ペスタロッチ主義教育(開発教授)の導入と師範教育の近代化を推進した。また帝国博物館(現・東京国立博物館)天産部長・歴史部長を兼ね、晩年は女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)、東京美術学校東京音楽学校(ともに現・東京芸術大学)の校長を歴任した。
生涯

1854年(嘉永7/安政元年)、陸奥国若松城下本四ノ丁(現在の福島県会津若松市西栄町)で、会津藩士・高嶺忠亮(通称金右衛門)の長男に生まれた(諱は忠良)。母はきの(同藩士・井深駒之助の娘)[3]。数え8歳から藩校日新館 (通常は10歳入学)で漢学を学び、異例の早さで進級、11歳で大学校を卒業した。以後、右筆・星研堂に師事して書道に専念、14歳で出席勝手次第の免許を得た[4]京都守護職に任命された九代藩主・松平容保に従い京都勤番であった父の病没にともない、13歳で家督を相続。1868年(明治元年)の戊辰戦争勃発後、帰藩した藩主の小姓の一人に抜擢され、会津戦争では降伏開城するまで藩主とともに籠城戦をくぐり抜けた[5]

降伏後は諸士とともに猪苗代謹慎所へ、1869年(明治2年)には東京山下門内の丹波亀山藩松平家の旧邸へ移送された。1870年(明治3年)に謹慎が解かれると、斗南藩(転封後の旧会津藩)の命で湯島天神下の福地源一郎の私塾日新舎に入塾、初めて英学に触れた。以後半年おきに、鍛冶橋・土佐藩邸内の沼間守一私塾、箕作秋坪三叉学舎へと転学し、1871年(明治4年)7月に福澤諭吉の三田・慶應義塾に入塾。英学を修め、教員及び童子局幹事を務めた[6]。同僚に矢野龍渓後藤牧太、塾生には三宅米吉尾崎行雄らが在籍していた。
アメリカ留学米国留学当時の肖像

22歳の時に福澤諭吉の推薦で[7]、文部省派遣「師範学科取調」留学生として伊沢修二(愛知師範学校長)・神津専三郎同人社塾生)とともに抜擢され、1875年(明治8年)6月文部省出仕となり、翌7月に東京開成学校選抜の派遣留学生11名ら(小村壽太郎鳩山和夫松井直吉ほか)とともに渡米した。同年9月、ニューヨーク州のオスウィーゴ師範学校(1861年開校:Oswego Primary Teachers' Training School)に入学[8]。当時、同校はエドワード・シェルドン校長のもと、人間の諸能力の合自然的開発を主眼とするペスタロッチ主義に基づく教育改革(実物教授)を推進する中心校であった(オスウィーゴ運動 Oswego Movement)。留学中、高嶺はシェルドン校長の紹介で、ペスタロッチの助手の子息として知られる美術教師ヘルマン・クリュージイ(Johann Heinrich Hermann Krusi, Jr.: 1817-1903)家に寄宿するという幸運に恵まれた[9]。なお、三代にわたり同名のクリュージイの子息ヘルマンも同校在学中で(高嶺の2歳年下)[10]1876年(明治9年)の夏期休業には、高嶺はクリュージイ家族とともに二度、公務を兼ねてフィラデルフィア万国博覧会(独立100周年記念)の観覧旅行にも出かけた[11]

その後、師範学科取調留学生は半年間の留学延期を許可されたが、高嶺は所定の修了年限内に20週間の教育実習を経て、1877年(明治10年)7月3日に優秀な成績で卒業(1968-69年に米国留学中の村山英雄が当時の学籍簿をオスウィーゴ校で発見)、ニューヨーク州の教員免許を取得した[12]。また、クリュージイの回顧録によれば[13]、彼は在学中から同時代の最新学説であるダーウィン進化論に関心を持ち、H.スペンサーJ.S.ミルなどの著作を読み耽り、博物学及び生物学精神科学に結びつける研究に没頭していたとされ、卒業後の夏期休業中には、セイラムで開催されたピーボディ科学アカデミー夏期学校[14]をヘルマンとともに受講し、海産動物の構造や組織を研究、次いで冬期休業中には、コーネル大学(先生伝では「ニューヨーク州イサカ大学校」と表記)のバート・ワイルダー(Burt Green Wilder:神経学・脊椎動物学教授)に師事して動物学を学んだ[15]


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