高島 益郎(たかしま ますお、1919年10月6日 - 1988年5月2日[要出典])とは最高裁判所判事、外交官(駐ソ連大使等)[1]。宮城県出身。 旧制第二高等学校を経て東京帝国大学を卒業し、1941年に外務省に入省[1][2]。1942年に陸軍に召集され、主計少尉となる[2]。北朝鮮で捕虜となりシベリア抑留。極寒のため凍傷となり、足の小指を失った[2]。後にこの時をふりかえり「ソ連の体制は嫌いだが、ロシア人は愛すべき国民」と語る[2]。 復員後は外交官としてオーストラリア、香港に勤務[2]。外務省条約局長として日中国交正常化交渉にあたる。後に外務事務次官に就任。外務事務次官時代には鈴木善幸首相と伊東正義外相が日米共同声明の解釈で対立した際には、伊東外相辞任と同時に事務次官の辞表を提出したことがある[3]。これは鈴木首相の説得で撤回したが、スジ論、剛直男としての面目を見せた[3]。その後、駐ソ連大使を歴任した。 1984年12月に最高裁判所判事となる[2]。1988年5月に在任中に死去。
経歴
参考書籍
野村二郎「日本の裁判史を読む事典」(自由国民社)
脚注^ a b 野村二郎「最高裁全裁判官」(三省堂)270頁
^ a b c d e f 野村二郎「日本の裁判史を読む事典」87-88頁。
^ a b 野村二郎「最高裁全裁判官」(三省堂)271頁
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歴
在オランダ日本大使 (1975年-1977年)
全権公使
柳原前光:1873年 代理公使(未赴任)
青木周蔵:1878年-1880年
長岡護美:1880年-1882年
桜田親義:1881年-1885年 臨時代理公使
青木周蔵再任:1885年
中村博愛:1885年-1889年 弁理公使
棚橋軍次 臨時代理公使
高平小五郎:1892年-1894年 弁理公使
赤羽四郎:1894年-1899年 弁理公使
珍田捨巳:1899年-1900年 弁理公使 :1900(明治33)年
三橋信方:1901年-1906年
佐藤愛麿:1906年-1914年
幣原喜重郎:1914年-1915年
落合謙太郎:1915年-1920年
田付七太:1920年-1923年
長岡春一:1923年-1925年
松田道一:1925年-1926年
広田弘毅:1926年-1930年
松永直吉:1931年-1933年
斎藤博:1933年-1934年
武富敏彦:1934年-1936年
桑島主計:1937年-1938年
石射猪太郎:1938年-1940年
引揚
全権大使
岡本季正:1952年-1956年
大江晃:1956年-1959年
宮崎章:1959年-1963年
伊関佑二郎:1963年-1966年
後宮虎郎:1966年-1968年
藤崎萬里:1968年-1972年
須之部量三:1972年-1973年
広田?:1974年-1975年
高島益郎:1975年-1977年
内田宏:1977年-1981年
中島信之:1981年-1985年
秋山光路:1985年-1988年
大鷹正:1988年-1990年
藤田公郎:1990年-1992年
有馬龍夫:1992年-1994年
佐藤行雄:1994年-1996年
池田維:1996年-2001年
東郷和彦:2001年-2002年
小池寛治:2002年-2004年
小町恭士:2004年-2007年
渋谷実:2007年-2010年
肥塚隆:2010年-2012年
長嶺安政:2012年-2013年
辻優:2013年-2016年
猪俣弘司:2016年-2019年
堀之内秀久:2019年-
表
話
編
歴
外務省条約局長
条約局
松田道一:1919年-1920年
山川端夫:1920年-1925年
長岡春一:1925-1926年