高島 満兎(たかしま まと 、1909年10月28日 - 1934年7月13日)は、日本の社会運動家。
福岡県三井郡合川村(現久留米市)で[1]、造り酒屋の二女に生まれた。福岡県立久留米高等女学校(現福岡県立明善高等学校)を経て、1926年日本女子大学に入学[2]。労働農民党の活動に参加していた長兄・日郎(じつろう)の影響で、在学中の1929年頃から学生社会科学連合会(学連)目白班の運動に参加し、卒業前に日本共産青年同盟(共青)に加盟[2]。同大学国文科を卒業、1930年4月より機関紙『無産青年』編集局で働くかたわら、各地でオルグ活動を行なった[1]。結核のため1931年暮れから1932年にかけて入院したが、途中で病院を抜け出し活動に復帰[2]。1932年、日本共産党に入党[3]。共青中央農民対策部長となり、長野県などで組織再建に努めた[2]。1933年3月、東京・新宿の下宿で就寝中に特別高等警察の警察官に急襲され、2階から飛び下りて脊椎や骨盤を複雑骨折。下半身不随となり、闘病の末死去した[1]。
脚注[脚注の使い方]^ a b c 高島 満兎 タカシマ マト
表
話
編
歴
戦前の日本共産党
前史(源流諸団体)
売文社
労働運動社
アナ派
水曜会
在米日本人社会主義者団
日本社会主義同盟
コミンテルン日本支部準備会
暁民会(暁民共産党)
第一次共産党時代
(1921/22-24年)
党幹部
堺利彦
山川均
荒畑寒村
高津正道
近藤栄蔵
橋浦時雄
徳田球一
野坂参三
吉川守圀
浦田武雄
赤松克麿
綱領・テーゼ等
22年テーゼ
党大会
党創立大会
2回党大会
臨時党大会
事件
暁民共産党事件(結党前)
極東諸民族大会
第一次共産党検挙事件
「ビューロー」時代
(1924-26年)
綱領・テーゼ等
上海テーゼ
事件
小樽高商軍事教練事件
第二次共産党時代
(1926-29年)
党幹部
渡辺政之輔
佐野学
鍋山貞親
福本和夫
市川正一
三田村四郎
志賀義雄
佐野文夫
綱領・テーゼ等
27年テーゼ
党大会