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高岳(高丘)親王
(真如入道親王)
真如入道親王
皇太子
在位大同4年4月14日(809年5月31日)- 大同5年9月13日(810年10月14日)
時代平安時代初期
生誕延暦18年(799年)
薨去貞観7年(865年)?
改名高岳 → 真如(法名)
別名蹲踞太子、頭陀親王
位階四品
僧職東大寺大仏司検校
父母父:平城天皇、母:伊勢継子
兄弟阿保親王、高岳親王、巨勢親王、上毛野内親王、石上内親王、大原内親王、叡奴内親王
子在原善淵、在原安貞
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高岳親王塔遺蹟(清瀧寺)
高岳親王(たかおか しんのう、名前は「高丘」とも表記)は、平城天皇の第三皇子。嵯峨天皇の皇太子に立てられたが、薬子の変により廃された。のち復権され四品となるが、出家して真如入道親王(しんにょ にゅうどうしんのう)となる。空海の十大弟子のひとりで、仏法を求めて老齢で入唐し、さらに天竺を目指して旅立ったのち消息を絶った。異母兄に阿保親王、甥に在原業平がいる。 名前は「高岳」「高丘」で表記揺れが見られる。杉本直治郎は、新訂増補国史大系本六国史を調査した上で、『日本後紀』(840年成立)の大同3年(808年)6月3日条では「高丘」、『続日本後紀』(869年成立)の承和2年(835年)正月6日条では「高岳」と表記されており、『日本三代実録』(901年成立)は「高丘」「高岳」を混用していることを指摘している[1]。その上で杉本は、成立の最も早い『日本後紀』が「高丘」表記であること、『日本三代実録』の引く詔勅がすべて「高丘」表記であることなどを根拠に、「高丘」が本来の表記だと主張している[2]。 なお、「入道親王」は出家した親王に対する称号であるが、高丘親王の時代にはまだこの称号はなく[3]、六国史では法名を記す場合には単に「真如」としか表記されていない[4]。また「真如法親王」と表記されることがあるが、「法親王」は出家後に親王宣下を受けた者に対する称号である上、やはり高丘親王の時代にはまだなかった称号であるため、適切ではない[5]。
名前