この項目では、越中国にあった城について説明しています。伊勢国にあった城については「高岡城 (伊勢国)」をご覧ください。
logo高岡城
(富山県)
高岡城跡の石垣
別名高岡城
城郭構造梯郭式平城
天守構造なし
築城主前田利長
築城年1609年(慶長14年)
主な城主前田利長
廃城年1615年(元和元年)
遺構堀、石垣
指定文化財国の史跡
位置.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度44分57秒 東経137度1分14秒 / 北緯36.74917度 東経137.02056度 / 36.74917; 137.02056
高岡城(たかおかじょう)は、富山県高岡市古城(旧越中国射水郡関野)にあった日本の城(平城)。日本100名城のひとつである。現在、城跡は高岡古城公園(たかおかこじょうこうえん)として整備され、市民の憩いの場となっており、国の史跡に指定[1]されている。桜の名所としても有名で日本さくら名所100選に選定されている。とやま城郭カードNo.28[2][3]。 1605年(慶長10年)6月28日、富山城に隠居した初代加賀藩主・前田利長は4年後の1609年(慶長14年)3月18日[4]、富山城下の町人地から出火した火災の類焼により城内の建築物の大半を焼失したため[5]、同年3月22日に魚津城に移り[4]、大御所徳川家康と将軍徳川秀忠に火災の報告と、関野に築城の許可を貰う。 利長は築城の方針に伴うため、資材調達を小塚秀正
歴史
しかしながら、廃城後も高岡町奉行所の管理下で、加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬蔵・番所などが置かれ、軍事拠点としての機能は密かに維持された。これは加賀藩の越中における東の拠点であった魚津城も同様であった。街道の付け替えの際には、濠塁がそのまま残る城址を街道から見透かされるのを避けるため町屋(定塚町)を移転して目隠しにしたといわれる。また、廃城後に利長の菩提を弔うために建立された瑞龍寺や周囲に堀を備える利長の墓所自体も高岡城の南方の防御拠点としての機能を併せ持つものとして配置されたと考えられている。なお、江戸時代の古図の中には城址を「古御城」の名称で記しているものがある。
城内におかれた米蔵等は1821年(文政4年)の高岡大火の際にほぼ全焼したが、その後再建され明治に射水郡議事堂が建設されるまであったという。
2006年(平成18年)4月6日、高岡城は日本城郭協会により「日本100名城」に富山県内から唯一選ばれた。また、2015年4月24日、「加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡?人、技、心?」の構成文化財として日本遺産にも認定される。 郭は、本丸、二の丸、三の丸、明丸、鍛冶丸の五つからなるが、現在では「御城外」とされている小竹藪や梅林(当時の郭名は不明)も、これに加えるものと考えられている(本丸以外を馬出とする見方もある[8])。水濠は本丸西側のみが一重で他面は二重であるが、これは現在は市街地化しているものの、かつては本丸の北から北西にかけてが沼沢地であり、それを背面の護りとして本丸を他の郭でコの字型に囲む形の縄張りであったためである。基本的なプランは利長の先の居城であった富山城との類似性に加えてそれらの発展型とみることができる。今なお築城当時の濠塁をほぼそのまま残しており、総面積の約21万m2(71,261坪)の内、約3割(24,400坪)が延焼防止のために広めにとった人工の堀である[9]。又、沼地以外全ての廓が現存している。 本城の縄張りは高山右近によるものとするのが従来の通説であるが、近年、富山城とともに聚楽第型に分類し、右近が手がけた高槻城、船上城などの縄張り手法との比較から、その個所を疑問視する説も一部では提示されている(外部リンク参照)。 廃城前に櫓などが建てられていたかどうかは定かではなく、1612年(慶長17年)に写したとの記述のある現存最古の高岡城図には、天守予定地と目される本丸北隅には材木蔵と記されており、前田利長が高岡へ入城して3年後の時点ではいまだ天守は築かれていなかった。廃城後の建物群については、現在知られている城図の中に、その配置や寸法を記したものがあり、大きなものでは、本丸に長さ24間(約43.4メートル)の米蔵が2棟、50間(約90.9メートル)の塩蔵が1棟あったことがわかっている。金沢城に今も残る三十間長屋や、近年再建された五十間長屋と同様の蔵が高岡城にも置かれていた。建築遺構は現存せず、石垣の一部や井戸が残るのみである[10]。 高岡古城公園
構造
高岡古城公園
高岡古城公園の桜
分類都市公園、歴史公園
所在地 日本富山県高岡市
面積21万m2
開園1875年(明治8年)7月
設計者(1911年改修時)長岡安平
事務所高岡古城公園管理事務所
事務所所在地富山県高岡市古城1番9号
備考日本の都市公園100選
日本さくら名所100選
日本の歴史公園100選
公式サイト ⇒http://www.kojyo.sakura.ne.jp/
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1965年(昭和40年)1月1日に県史跡、1967年(昭和42年)10月7日に県定公園に指定され[12]、1989年(平成元年)7月25日には日本の都市公園100選に選定された[13]。