高山英華
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たかやま えいか
高山 英華
生誕 (1910-04-20)
1910年4月20日
日本 東京都東京市芝区高輪(現在の港区高輪)
死没 (1999-07-23) 1999年7月23日(89歳没)
国籍 日本
出身校東京帝国大学工学部建築学科卒業
職業大学教員
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高山 英華(たかやま えいか、 1910年4月20日 - 1999年7月23日)は、日本の都市計画家建築家東京大学工学部名誉教授工学博士。近代都市計画学の創始者。

建築系の都市計画学者で、また都市工学の先駆者として都市再開発から広く地域開発、都市防災の推進等を通しまちづくり事業に貢献し、都市計画分野に大きな足跡を残す。
人物

1910年4月生まれ。東京市芝区高輪育ち。幼少の頃住みかは高輪から代々木、代々木から大久保、その後に兄が結核にかかり、一家で阿佐ヶ谷に引越す。以来東京都杉並区に在住した。東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)、旧制成蹊高等学校を経て、1934年東京帝国大学工学部建築学科卒。

成蹊高校時代は、バスケットボールの選手で活躍。中学時代と大学在学中サッカーの選手として活躍し、旧制中学サッカー部時代全国優勝を経験。文芸評論家中島健蔵は旧制中学と東大サッカー時代の先輩にあたり、彼の自伝小説『自画像』にも登場する。帝大在学中の1930年第9回極東選手権大会で日本代表フォワードに選出されている。その他戦前に開催を計画されていた1940年東京オリンピックのパンフレット用ポスターの絵を手掛ける。また、ベルリンオリンピック代表の候補にも選ばれ、ベルリンオリンピックは出発直前に盲腸を発症し辞退、これにより兵役の任官も遅れたため同期の士官らが招集されたノモンハン事変に遭遇を免れる。

1933年西山卯三らと、日本文化工作聯盟と対峙する「青年建築家クラブ」を結成、資本論フリードリヒ・エンゲルスの住宅問題の読書会を開催していたが、マルクス主義思想を理由に特別高等警察の手入れを受ける。このため、兵役時には毎日往復びんたの日々であったという。1934年に大学を卒業。卒業制作でこの年の辰野金吾賞を受賞。この年はほかに日建設計社長となる塚本猛次、山下設計事務所社長となる野崎謙三が受賞している。

卒業後は財団法人同潤会への就職を予定していたが、都市計画の研究のため助手になって大学にそのまま残る。

1936年財団法人同潤会創立10年を記念して資金援助を受け、岸田日出刀らと共同研究としておもに外国における住宅敷地割の調査研究をまとめ、「外国に於ける住宅敷地割類例集」として出版した。

1938年、内田祥三の指導の下、内田祥文関野克らと満州国大同都市計画(大同都邑計画)立案に参画するが徴兵を受ける。1941年大学に戻り、東北の漁村プランなど[1]、都市計画関連の委託研究をもっぱら手がける。同年、高山の下に丹下健三大学院に進学してくるが、日米開戦となり高山は中国戦線、満州野線砲兵大7連隊に召集される。1942年3月除隊し、1943年には千葉県稲毛に設置された東京帝国大学第二工学部へ移籍する。移籍後は企画院事件ですっかり骨抜きになっていた企画院の戦時物資動員計画等に関与し、国土防衛と自給自足の資料調査に従事した。

戦後は内田祥文や丹下健三、浅田孝らと国土会を結成し、戦災復興都市計画に従事するべく、建築系の人材を人手が足りない戦災復興院嘱託に送り込むほか、自らも長岡市など、全国各地の都市計画事業に従事する。国土会はその後日本建築文化聯盟に再組織化し、土地の国有地化を主張しながら1947年に戦後結成された建築諸団体と新日本建築家集団(NAU)として合併し、高山は初代の中央委員長になる。

1949年に東京大学教授、1961年からは東京工業大学教授を併任したが、1962年に東京大学工学部に都市工学科を設立し移籍、国土計画、地方計画、農村計画、住宅地計画などを担当する。高山の研究室には後にソウルオリンピック主競技場を設計して韓国近代建築の巨匠となる金壽根も所属していた。同時期に、武蔵野市から研究室への吉祥寺駅周辺都市計画案の作成委託をうけ「高山案」を立案。

1964年東京オリンピックでは、オリンピック施設特別委員会の副委員長となり、開催会場一帯の配置計画や道路や輸送体制を含む全体計画のプロデュースを行なう。駒沢会場の総合計画を検討では公園内の貫通道路(現駒沢通り)が人と車を分ける立体交差を採用、中央には広場を置きその両側に体育館と競技場を配置した構成の会場を立案。

また国策として高度成長政策が展開された1960年、国土計画協会から工業都市のプランニングが委託される。こうして三重県四日市市などの工業都市の都市計画にかかわるが、今度は四日市ぜんそくといった公害の対策案作成が後に都市計画協会に委託され、高山が公害対策の研究会を設置しその中心となって、1969年に公害対策マスタープランを発表することになる。

1960年に日本都市計画学会に委託された富山県の第二次県勢総合計画「射水地域総合開発計画」の構想具体化は1961年から1962年にかけて高山研究室が中心となり「射水地域広域都市計画」としてまとめている。

1966年からは江東防災総合委員会委員長に就任し江東十字ベルト構想を発表。提案した6防災拠点の一つである白髭西地区の再開発素案は1973年に立案し、11月に発表された。

1965年から1967年まで日本建築学会会長。そのほか、都市計画中央審議会委員、国土総合開発審議会委員、日本原子力産業会議常任理事、財団法人都市防災研究所会長、日本沿岸域会議顧問、人間道路会議会長など多くの要職を歴任している。安田火災海上本社ビル(現損保ジャパン日本興亜本社ビル)では建設委員の一人に名を連ねたが、会議には毎回欠席している。

1970年に開催された日本万国博覧会の跡地利用計画策定では、高山が主導して、施設中心の再利用計画を採用せず、森林を主体とした万博記念公園を造成する方針を決めた[2]

1975年から1979年にかけて、国土庁住宅都市整備公団からの委託で、面積約1.200haに及ぶ東京都臨海都心部開発プロジェクトを手掛ける。同時期の筑波研究学園都市建設では研究学園都市開発基本計画策定委員会の副委員長を務め、マスタープランづくりに深く関与した。

1971年に東京大学を退官。1978年からは日本地域開発センター理事長や再開発コーディネーター協会の初代会長を務める。同協会に都市再開発の賞として「高山賞」が、また防災まちづくりのための「高山英華基金」が創設されている。また、平成7年度ひろしま街づくりデザイン賞大賞を受賞した広島市のA・CITYヒルズ&タワーズ」では磯崎新とともに総合監修を務めた。

晩年は地元杉並区でのまちづくりカレッジの校長と、杉並区にあった研究機関(蚕糸試験場と気象研究所)2跡地周辺の密集市街地の不燃化まちづくり事業推進機関として設立した防災不燃化公社(現まちづくり公社)の理事として、防災不燃化事業のほか公社運営や事業展開について指導していた。
略歴

1910年明治43年) 出生

1928年昭和03年) 東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)卒業

1931年(昭和06年) 成蹊高等学校卒業

1934年(昭和09年) 東京帝国大学工学部建築学科卒業、東京帝国大学工学部建築学科助手

1935年(昭和10年) 野戦重砲兵第一連隊入隊

1938年(昭和13年) 東京帝国大学工学部建築学科助教授


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