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高山 良策(たかやま りょうさく、1917年3月11日 - 1982年7月27日)は、日本の画家、怪獣などのぬいぐるみ(着ぐるみ)、造形物製作者。特に第1期のウルトラシリーズでの、成田亨デザインによる怪獣造形は評価されており、「怪獣の父」と呼ばれる[1]。
兄は日本画家の高山無双。 1917年(大正6年)3月11日、山梨県西桂村(現西桂町)出身の大工の次男に生まれる。のちに日本画家になる兄の影響で、幼少期から絵に親しみ、画家を志す。 1931年(昭和6年)、14歳。家が貧しかったため単身上京。製本工場に勤務しながら、独学で絵を学ぶ。画集を買う余裕もなかったため、丸善などの書店に行き、画集を立ち読みして様々な絵を見たという。 1938年(昭和13年)、21歳。陸軍に徴兵され、中国戦線に渡るが、苛烈な最前線にもかかわらず、紙切れまでも利用して、軍隊での生活を題材に、鉛筆や水彩による多くのスケッチを描いた。 1940年(昭和15年)、23歳。退役して帰国後、田辺製薬図案部に就職。また、本郷にあった福沢一郎の絵画研究所で学ぶ。福沢は当時、シュルレアリスム絵画を描いており、その影響をうける。 1943年(昭和18年)、26歳。太平洋戦争がはじまると、同僚の黒田龍雄
略歴
1945年(昭和20年)、28歳。戦争末期の3月、貧困だがエネルギーあふれる画家たちが集まっていた「池袋モンパルナス」のアトリエつき住宅に転居。
1946年(昭和21年)、29歳。山下菊二、大塚睦らと「前衛美術会」を結成。同年利子夫人と結婚。東宝では、スタッフ・俳優のほとんどが参加した一大労働闘争「東宝争議」が始まり、高山も共産党に入党する。争議中には、組合の命令で同僚の鷺巣富雄、山下菊二、山本常一らと街頭で似顔絵描きもさせられた[2]。
1950年(昭和25年)、33歳。共産党を離党。
1951年(昭和26年)、34歳。東宝を退社。以後は、フリーの立場で、特撮・造形関係の様々な仕事をする[1]。
1953年(昭和28年)、36歳。日教組プロが製作した映画『ひろしま』のセットデザインをてがける。
1954年(昭和29年)12月、37歳。子ども向け雑誌『よいこのくに』(1954年12月号、学研)の「おめでとう くりすます」のページでは、人形制作・構成の川本喜八郎のもとで、装置を担当した。
1958年(昭和33年)、41歳、人形劇映画『注文の多い料理店』(学研人形部)で人形操作を担当、
1959年(昭和34年)、42歳。飯沢匡の人形アニメーション映画『ポロンギター』(26分・16mm・カラー、学習研究社)の人形制作を佐々木章、加藤清治とともに担当。また、練馬区に転居し、引越しが5月だったことからそのアトリエを「アトリエ・メイ」と名づける。このアトリエ名は、のちに「怪獣制作工房」名として有名になった。
1961年(昭和36年)、44歳。大映の超大作映画『釈迦』の特撮用セットを作る。のちの『大魔神』にも繋がる、神像崩壊シーンの特撮も手がける。
1962年(昭和37年)、45歳。『鯨神』で、大橋史典と交代し鯨神(セミ鯨)の撮影用ミニチュアを制作。
1963年(昭和38年)、46歳。大映初の怪獣、『大群獣ネズラ』のネズラを作るが不評だった。のち撮影は中断され、企画自体が幻に終わった。
1964年(昭和39年)、47歳。「よみうりランド」の「水中バレエ劇場」用の精巧なウミガメの模型を製作[1]。
1965年(昭和40年)、48歳。上記のウミガメの作り物に円谷英二が目を留め、彫刻家成田亨の紹介により円谷プロダクション製作の『ウルトラQ』に参加[1]。製作第14話より怪獣・宇宙人の着ぐるみ製作を担当。成田の秀逸なデザインもあり、現在でも、強烈な印象を与える造形となる。
1966年(昭和41年)、49歳。京都に3か月間出向し、大映映画『大魔神』の大魔神造形を担当。等身大、実物大の大魔神も製作。ラストで崩れ落ちる大魔神のミニチュアにおいては、素材選びに苦労しながらも見事な効果を上げた。
この崩壊シーンでは、魔神像がうまく崩れず、かなり悩まされている。利子夫人によると、『ウルトラマン』の制作を始めた円谷プロから、東京の自宅に「早く戻って欲しい」と催促の電話が何度もあったが、「この撮影を見届けるまでは帰れない」として、京都の現場に残っていたという。
これにさきがけ、京都と東京を往復する多忙な日程の中、『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』のバルゴンも製作しているが、結局その表面仕上げはエキスプロに任せている。
1967年(昭和42年)、50歳。『ウルトラマン』に続いて『ウルトラセブン』にも参加し、ほとんどの怪獣の造形を担当。「毎週の怪獣造形」という過酷なスケジュールの中、独特の存在感のあふれる怪獣を作り続ける。週1回放送というテレビ番組の厳しいスケジュールから、『ウルトラマン』の怪獣の3分の1は過去の怪獣の改造による使いまわしであったが、成田のデザインと高山の造形はそのハンデを感じさせないものであった。
同年、ピー・プロが特撮を担当した『神州天馬侠』で大ワシのクロを制作、『怪獣王子』の恐竜をデザイン・制作。うち数体は、番組打ち切りのため制作したもののお蔵入りとなってしまう。主役のネッシーは、大橋史典が制作したものが重厚すぎて使えず、開米栄三と協力して手直しを担当。また、これとは別に小ぶりのネッシーを制作している。
ピープロではこのほか、同社のパイロット作品『ゴケミドロ』の、宇宙怪物ゴケミドロ、同じくパイロット作品の『豹マン』のヒーロー「豹マン」を、ゴムマスクタイプと植毛タイプの2種類制作した。この時期、折からの怪獣ブームの中、「怪獣を作る男」としてマスコミに大きくとりあげられ、話題となる。
1968年(昭和43年)、51歳。『ウルトラセブン』の途中で、成田が怪獣デザインを中途降板した後は、池谷仙克とコンビを組み、さらに名怪獣を作りつづける。『マイティジャック』では敵組織Qの「レイブン」などの超兵器、『戦え! マイティジャック』ではゲスト怪獣の造形に参加。
1971年(昭和46年)、54歳。「第二次怪獣ブーム」の火付け役となった『宇宙猿人ゴリ』で、再び盟友うしおそうじのもと、ゴリ博士ら猿人のマスクや、おどろおどろとした「公害怪獣」を製作した。ゴリ博士の紫を基調にしたスーツは、高山のデザインによる。利子夫人によると、『宇宙猿人ゴリ』の番組名について、「悪役が番組の題名になるなんて面白いな」と語っていたそうである。
同作品には、高山の個人作品「かなぶんおやぶん」がゲストの怪獣キャラクター(コンピューター怪獣)として使用されている。