高山祭
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高山祭
Takayama Festival
屋台
イベントの種類祭り
正式名称春の山王祭
秋の八幡祭
開催時期4月、10月
初回開催春の高山祭:慶安5年
秋の高山祭:享保元年
会場岐阜県高山市
主催春の高山祭:日枝神社
秋の高山祭:桜山八幡神社
来場者数春の高山祭 19.4万人(平成28年)
秋の高山祭 25.2万人(平成28年)
最寄駅高山駅
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高山祭(たかやままつり)は、岐阜県高山市で毎年開催される、4月14?15日日枝神社例祭「春の山王祭」[1]と、10月9?10日櫻山八幡宮例祭「秋の八幡祭」の総称である[2]

「屋台」と呼ばれる山車を曳いて市街を巡幸する[3]ことから、京都市祇園祭埼玉県秩父市秩父夜祭と並んで日本三大曳山祭や日本三大美祭の一つに数えられる。重要有形民俗文化財および重要無形民俗文化財に指定されている。
沿革春の高山祭における闘鶏楽春の高山祭における獅子舞夜祭の様子

山王祭は江戸時代前半、元禄5年(1692年)の記録に40年前から3年ごとに祭礼が行われていたとの記録があることから、その歴史は飛騨高山藩金森頼直治世下の慶安5年(1652年)まで遡ることができる。ただし、この時点では屋台が曳行されたとの記録はない。屋台の創建は最も古い屋台の創建が宝暦年間であることから、屋台が祭に加わったのはそれ以降と考えられる。山王祭の氏子は安川通り以南にあたる上町の住民で、屋台組の他に神輿組と呼ばれる組織が祭に奉仕しており、獅子舞は神輿組の一つである森下組の担当で、闘鶏楽は片野組が担当している。統括するのは各屋台組が1年ごとに持ち回りで務める宮本で、明治22年までは青龍台組が独占していた。神輿が闘鶏楽や警固、獅子舞などと練り歩く祭行列は山王祭では御巡幸と称し、正徳6年(1716年)まで遡ることができる。この御巡幸は大榊を先頭、須督祭事?先例と記された宮本旗という旗が最後に着き総勢300名ほどが行列を組む。獅子舞は昭和49年(1949年)に兀下徳之助が考案したものに変更されており、それ以前のものは兵助獅子と称した。また、夜に提灯をつけた屋台の曳行は夜祭と呼ばれる。本来夜祭は祭の最後を飾る行事であったが、現在では試楽の夜に行われている。

八幡祭は享保元年(1716年)の記録が最も古い。その後、享保3年に4台の屋台(猩々、高砂、湯ノ花、浮嶋太夫夫婦)を曳いたとの記録がある。このときは屋台の他に現在の祭りでは見られない笠鉾2基も行列に加わっている。明和5年(1768年)にはが行われていたとの記録もある。寛政8年(1796年)に高山の安川通り北側で大火が起き、屋台が多数焼失している。更に明治8年(1875年)に4台の屋台が火災により失われている。こちらの氏子は安川通り以北の下町の住人で、祭を取り仕切るのは4つの屋台組から一つずつ選ばれる年行司とに別の4つの屋台組から選ばれる副年行司である。年行司及び副年行司を出す屋台組は1年ごとに変わる。神輿が闘鶏楽や警固、獅子舞、大榊などと練り歩く祭行列は八幡祭では御神幸と称する。獅子舞は左京獅子と呼ばれ、その歴史は延宝年間まで遡るとされる。また、夜に提灯をつけた屋台の曳行は宵祭と呼ばれる。

初期の屋台は祭の度に建造と解体を繰り返していたため50年ほどで部品が劣化して新造していたが、天保年間に起きた火災で多くの屋台が焼失したことを契機として、屋台蔵が普及して屋台を解体せずに済むようになったことで屋台の寿命が延び、高価な彫刻などが取り付けられるようになった。江戸時代には高山の町に多くの豪商がおり、京都から織物や金具を買い付けて取り付けるなどしてその華やかさを競った。第二次世界大戦後、高山祭を支えていた豪商が没落して屋台の維持管理が困難になったことから山王祭と八幡祭の屋台組が合同して1951年(昭和26年)に高山屋台保存会を結成。これ以降二つの祭りは高山祭と呼ばれて文化財として一括して扱われるようになるが、それぞれの祭りを担う屋台組や組織はそれぞれ独立している。

1968年(昭和43年)に桜山八幡神社境内に高山屋台会館(現・高山祭屋台会館)が竣工し、八幡祭の屋台が通年で見られるようになった。この屋台会館の収入は各屋台の維持費に充てられている。

1960年(昭和35年)6月9日に「高山祭屋台」23台が重要有形民俗文化財に、1979年(昭和54年)2月3日に「高山祭の屋台行事」が重要無形民俗文化財に指定された。同じ行事に関連して、国の重要有形民俗文化財・重要無形民俗文化財の両方の指定対象となっているものは日本全国で5例のみで、その内の1例である。

2016年(平成28年)12月1日、エチオピアアディスアベバで開催されていたユネスコ無形文化遺産条約第11回政府間委員会において、「高山祭の屋台行事」を含む日本の「山・鉾・屋台行事」のユネスコ無形文化遺産代表一覧の記載(ユネスコ無形文化遺産登録)が決定した。

2020年(令和2年)、新型コロナウイルス感染症の拡大を受けて、この年の高山祭は春・秋ともに屋台を引き回さず、神事のみ行うこととなった。天候以外の理由で屋台を出さないのは戦後初めて[4][5]。コロナ禍が長引く翌2021年(令和3年)も、春・秋ともに屋台の引き回しは行われないこととなった(春は、屋台を普段収められている屋台蔵の中で公開。秋は、屋台行事を一切行なわず神事のみ。)[6][7]

2022年(令和4年)4月の山王祭は屋台の曳きそろえなど中止となったが、伝統継続のため祭として3年ぶりに実施された[8]
屋台

山車や曳山のことを、高山など中部地方の一部では「屋台」と呼ぶ。高山祭の屋台の特徴としては、上段の屋根の部分が伸縮して高さを変えられるようになっていることや、4輪の屋台が方向を転換する際にジャッキで戻し車と呼ばれる車輪を引き出して2輪を浮き上がらせて一時的に3輪の状態にする機構を備えている点が挙げられる。また、各屋台に台紋と呼ばれる紋章があり、屋台の飾りや屋台組の衣装などにあしらわれている。

祭の屋台は、各町内の屋台蔵に保管されている。高山市内を歩くと、いたるところで正面に大きな扉のついた白壁の土蔵のような建物を見かける。祭以外の時はこの屋台蔵で保管される。祭の際は屋台蔵から引き出され、神社前などに引き揃えられる。なお装飾が施された貴重な文化財であるため、雨天及び降雨が予想される場合には引き揃えは行われず各屋台蔵で待機となる。

秋の八幡祭の屋台は交代で櫻山八幡神社の境内にある高山祭屋台会館に移され、祭の期間以外は一般客に公開されている。

高山祭屋台は「動く陽明門」とも呼ばれ国の重要有形民俗文化財である。
春の山王祭
神楽台(かぐらたい)山王祭神楽台

上一之町上組。宝暦年間の創建と伝わる。古くから山王祭の神楽を主管していた屋台で、屋台巡行ではをひかず常に先頭を行く。構造は、屋根無し、四輪外御所車。台輪はケヤキで作られている。寸法は高さ5.8m、幅2.22m、長さ3.15m。「体物」「無遺」と書かれた神旗と龍頭剣を付けた飾りを備え、中段には白彫りの龍の彫刻、下段には白彫りの獅子の彫刻があり、前後各1面、左右側面に各3面の八稜鏡を掲げる。神楽を奏するための大太鼓が乗り、鳳凰の飾りがつけられている。文化2年(1805年)、荷車形から現在の四輪形の屋台になり、その際に屋台組が改組されて太平楽組と別れる。その後嘉永7年、明治26年、昭和50年、平成7年に修理が行われている。中段は谷口与鹿による巻龍、下段には村山民次郎の獅子の彫刻が施されている。明治19年(1886年)に太平楽組と再び合同。囃子は大太鼓1、小太鼓1、笛2で高い山から、場ならし、一つあげ、二つあげなど場所によって曲目を変える。屋台蔵の建造は大正4年(1915年)である。
三番叟(さんばそう)三番叟

上一之町中組。 創建は宝暦年間に遡る。構造は非常に質素であり、切妻造りの屋根有り、恩雀が1対、宝玉付き。台輪はミズメザクラで作られている。寸法は高さ6.84m、幅2.13m、長さ4.19m。狂言の演目にならい巡行は神楽台に続ぐ。創建当時は「恩雀(おんじゃく)」と呼ばれていた。後に翁台とも呼ばれた。中央には欄干があり、波模様が素木で彫刻されている。創建時のからくりは能、狂言に関連したものであったが、文化年間に浦島太郎伝説に題材を採り、玉手箱を覗き込み翁へと変貌した人形が、扇と神楽鈴を手にもって舞うものへと変わっている。屋台蔵の建造は文久元年(1861年)。
麒麟台(きりんたい)春の高山祭の屋台、麒麟台

上一之町下組。創建年は不詳。


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